日比野 翔

金沢の美術大学を卒業して地元企業に38年間勤め、8年前に定年延長1年で退職し今年70歳…

日比野 翔

金沢の美術大学を卒業して地元企業に38年間勤め、8年前に定年延長1年で退職し今年70歳を迎えます。悠々自適となったのは最近で、退職した年は帯状疱疹になるほど環境変化についていけませんでした。このnoteでは自分史とともに、定年後のあり方について投稿していきたいと思います。

マガジン

  • 自分史

  • 定年後自分の人生を取りもどす

    自分の人生がどのような価値を持つのか、持たないのか書き出して改めて自問する、ほとんど自分自身のためのマガジン。つい甘くなってしまうのを避けてはいても、時代を生きた一人の人間を救い出したい思いを消せない。

  • 読書感想文(日比野翔)

    自分の読んだ本の感想文です。

最近の記事

石川子ども文庫連絡会への手紙

突然のご連絡になり不審に思われたかもしれません。私は野々市市の読書会連絡協議会の藤井と申します。〇〇さんの連絡先は、石川県の読書会連絡協議会(以下読連協と略す)の事務局から教えていたただきました。〇〇さんは県の読連協の名簿には石川子ども文庫連絡会代表とありました。実は先ごろ県の読連協の理事会で、児童書の読書会の方々とも連携して読連協の活動の幅を広げたらどうかとの提案があり、村井会長から野々市市の読連協で連絡を取ってみて欲しいと指示を受けました。 私は28年前に金沢市から野々

    • [自分史] 定年退職後の模索期1

      ついにCDを買う決心をしてCD屋に行くとぼくと女性店員だけだった。しばらく店内を探しても見つからなかったので、その女性店員の方へ行って「アジアンカンフージェネレーションってありますか」と尋ねた。一瞬彼女は思案したがすぐにその場所に案内してくれた。8枚ほどあった中でベストアルバムを選んで彼女のところへ持って行く。幾分嬉しそうな感じが素振りに出ていた。袋にCDを入れる時にフンと笑ったような気がした。ぼくはお金を払い、年甲斐もなくと思われていることに少し動揺したかもしれない。彼女は

      • 自分の郷土が舞台の時代小説

        たかが趣味の読書会サークル活動に、自分を向上させようとするまで打ち込まなくていいものよと思うのだが、趣味なだけにかえって拘ってしまうのかもしれない。自分の生き方が関わってくると考えるといい加減に出来ないのだ。文学散歩といった楽しみを小説を深く読むように、イベントとして企画してしまう。言わば時代小説の舞台を再現するための探究的な、文学散歩なのだ。加賀の一向宗が中心となった農民一揆の歴史的事実が我が郷土の中にかつてあった。空間的には確かに私たちの祖先の土地に一大事件として巻き起こ

        • 仕事に精を出し休まない

          偉大な芸術家の仕事にどうして卑小な自分が嫉妬しなければならないのか。彼は晩年癌で闘病生活を余儀なくされた以外はこれ以上ないほどの幸せな人生だったと思える。音楽の才能一筋に自分の仕事をやり遂げて一生を終えることができたからだ。才能のある人の成功物語には充実した一貫性がある。仕事をやり遂げた人の人生ほど素晴らしいものはないと思える。仕事という活動の場が何より大事だと改めて思い知らされた。今のぼくにそれがない。ぼくの仕事は何か。生まれて死ぬまで自分の仕事が分からなくて終わるのは何と

        石川子ども文庫連絡会への手紙

        マガジン

        • 自分史
          18本
        • 定年後自分の人生を取りもどす
          34本
        • 読書感想文(日比野翔)
          28本

        記事

          日常と非日常

          昨日はよく晴れて気温も高かった。桜は満開になりお花見に母を連れて行こうと朝迎えに行くと、物憂がって家から出たくないと言ってキャンセルになった。それでは二人で行こうかと妻を誘ってみるとじゃあということになって、人混みはぼくも妻も嫌いなので、犀川沿いの河川敷の桜並木をお花見することになった。月曜なので混雑するほどではなかったが、メインのところではそこそこ賑わっていた。このように書いて普通にお花見を楽しんだことにすればいいのかもしれないが、ところがぼくの気分はどういうわけか沈んでき

          日常と非日常

          読書オタクのチョイワルじじい

          私小説は何処か知識人っぽい主人公の話ばかりで隔たりを感じていた。そこで企業小説や会社員小説の方に関心が向きだしている。身近かに感じる小説は感情移入がしやすいし、書く側に立って追創造することもできそうだ。それはかなりセミプロの領域に入るか、マニアックな趣味となって定年後の楽しみとして最適だ。マニアックなオタクというのも楽しそうだ。少なくとも既に一般大衆から個性的な人間になっている。個性的な人間というよりは面白人間というところだろう。テレビに出るコメンテーターや、ラジオに出るパー

          読書オタクのチョイワルじじい

          ブログに自分を書くことが自立につながる

          このブログ空間、何を書いてもどのように書いてもOKという、書いた文字がそのままフォントに再現されて目に前に現れるという仕組みに、今更ながら便利なツールが出来たものだと感心する。このお陰でぼくはいつでも好きな時に思うままを綴ることができる。それはどこまでも自分に感けられるということだ。自分をどうして捨てる必要があるものか。自分がなくてどうして実感を持って今を生きている、と言えるのか?たとえ誰かのために生きたとしても自分を捨てる必要はない。自分のままにその誰かに接すればいい。自分

          ブログに自分を書くことが自立につながる

          公共としての読書

          読書の公共性は市民として最低限備えているべき教養と考えてみる。例えば、太平洋戦争の終戦日は、1945年、昭和20年8月15日であること。広島への原爆投下日は、8月6日、長崎へのそれは、8月9日であること。沖縄慰霊の日は6月23日。これ位の日は最低限記憶しておくべき日だと思う。そのように最低限読んでおきべき小説というのを挙げてみたい。ぼくは長い間、満州についての知識がなかった。かつて日本も欧米帝国主義列強の真似をして植民地を持っていたことの知識が具体的になかった。日本史の授業で

          公共としての読書

          一歩一歩進むのが現実的

          ぼくの残りの生涯を賭けた目標の達成計画の中で、地域の(公的な)読書会を設立というのがある。あるというより最近決めたばかりなのであるが。この計画にはさまざまな問題が埋まっていることが予想される。読むべき本の選定をどのように行うかなどはすぐ考えられる問題だが、もっと自分の達成能力がそもそも問われる課題をまず取り上げてみたい。それは開催する読書会にどう人を呼び込むか、そのために必要な魅力ある課題本の紹介という主体的な能力問題がある。果たしてぼくは予め未読な人に向けて自分が推したいと

          一歩一歩進むのが現実的

          精読には何かがある

          このブログを最高の、読むに値する、個人出版の品質にする。出版レベルの内容とボリュウムを持つまでに育て上げる。そこまでに到達するにはどんなことが必要とされるか現時点では分からないが、都度調べて具体的に目標設定できるまでにする。 道はあるはずである。 コンテンツには自分が経験したことのみを正直に、ありのままに記述するようにする。読書については、その本を完全に理解するまで読解をやめないようにする。理解できたことはこのブログに、徹底的に他者が理解できるように書く。 極端に言えば

          精読には何かがある

          のんびりダラダラから計画的に実行するへ

          今私は野々市市の読書会に属している。いちメンバーだったのが会長になって2年経った。会長となると県の読書会の副会長に、会長から請われて昨年なった。一人で本を読んでいるのと、読書会仲間で読んでいるのとどちらがいいか、ここで突き詰めて考えてみたい。読んだ感想を仲間と共有する楽しさは、これまでの読書会で大いに味わってきた。それで満足していれば何も考える必要はない。ところが読書会が市や県の生涯学習課の支援や補助(開催場所や講師依頼の補助金)を受けることになると、単に本を読んで感想を述べ

          のんびりダラダラから計画的に実行するへ

          他人を書くことに気づいた

          自分だけが作り出せる小説を書きたい。それこそ自分が生きた証になるものだ。今はそう思う。これまで読んできた小説のような小説は書けない。何が小説という表現形式で、必然のものかは分からない。とにかく書きたいことがなければならない。私が小説と思っている方法で、書きたいことが何かあるはずなのだ。生きるってどういうことかを書きたい。目的や目標が生きるには必要だということは身に沁みて分かっている。目標が少しづつ実現していく様子を書きながら体験したい。それが生きるってことだと思う。問題は目標

          他人を書くことに気づいた

          計画を立てて実現する達成感

          金沢市のとなりの野々市市で、毎年椿まつり(全国椿サミットの一環)が行われ、読書会主催で文学講演会もその中のイベントとして毎年参加している。このブログで講師依頼から講演内容を巡っての打ち合わせや進行プラン等の準備を書いているが、今回は一連の経験を振り返ってみて、つかんだ教訓について書いてみたい。結果は予想以上で講師も読書会仲間からも高評価を得た。よく準備した結果だった。講師選びから講演会実施まで約4ヶ月かかっている。私が思うのは、計画してその通り実現された時の達成感は並々ならぬ

          計画を立てて実現する達成感

          自分の渇望に素直になろう

          ぼくの中にいつもある渇望を少しでも満たそうとしてブログを書く。その渇望を以前は承認欲求や何者かになることや自分の仕事をすることだと考えていた。承認されなかったり、何者でもない無力感にとらわれたり、何もしていないことに焦ったりして、魂の飢えを感じていたと思っていた。つまり、渇望は良くない状態と何となく思っていた。しかし、渇望はエネルギーを生み出して前進させるバネのようなものだ。力を溜めている段階が渇望なのだろう。そうすると、渇望はいい状態だと言うことになる。そして自分の渇望を反

          自分の渇望に素直になろう

          ぼくは文学が心底好きなんです

          明後日講演会を開く。ぼくが会長をしている読書会連絡協議会が主催して、ぼくは司会進行をしなくてはならない。これまで3回やって今回4回目なので、要領を掴んでいるかといえば全くそういうわけではない。これまでは講師の先生にほとんどをお任せしていればよかったし、主催者は表立って出てこなくてよかった。今回は講師の先生は素人と言ってよく、講演内容も20分ほどで終わってしまう内容で、1時間ほどは聴衆との質疑応答になる。講師は80歳近くになって初めて小説を書いて家族が自費出版してくれた。それが

          ぼくは文学が心底好きなんです

          善意の文学

          ぼくが文学を好きなのは何もエンターテイメントだからではない。軽めの小説よりむしろ深刻な小説の方が好きなのだから娯楽を求めているのじゃない。娯楽なんてその場だけで消費されて、あえなく次は何となるだけだ。文学は消費されるものではない。何かといえば発見の旅という方が近い。一つの作品で得た感興が次の発見への導入となるような、好奇心の連鎖になるのだ。そこに道が出来ている。そうすると、何処か未開拓の領地に足を踏み入れる冒険が始まる。 ぼくは自国の歴史に無知だった。ところがある小説から、