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徳川家康さま☘️をたどる#54☘️関東に改めて築く徳川プチ政権🤣

初筆 2023年 9月 30日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる #54
⬇️



1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

# 三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著

# 信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 小田原征伐で相模北条家はいったん解体、家康さまの娘婿の氏直さまは大坂に屋敷をもらうが直後病でお亡くなりに😭北条家は今川人質時代から家康さま交流のあった北条氏規さまの系統が継ぐ

  • 家康さまは伊達政宗さまをコンコンと指導💦その理由は政宗さまが改易にでもなったら、徳川家が関東奥惣無事担当として東北に国替されてしまう可能性があるため💦

  • 小田原征伐直後に家康さまは江戸入府した❗️


⬇️前回はこちら❗️


3 なぜに江戸❓

家康さまは、羽柴秀吉さまの意向を汲んで、
と言うよりも、中央政権の命に従い、
新徳川領国の本城を #江戸 と定め
#小田原征伐 の収束して間もない
1590年・天正18年8月1日に #江戸入府 しました。

よく聞く話では、家康さま入府以前の江戸は
一面湿地帯だった、とも、
寂れた漁村でもあった、とも、
伝えられてきましたが、これは、
家康さまが江戸の街を開発するのに
尽力した、ということにしといたほうが
徳川家に伝わる記録において、
家康さまの偉業とか先見性が目立つから
そういう話になってるだけ、という説もあります🤣🤚

つまり、このころの江戸は既に、
関東における水陸交通の要所と、なっていた説を
取りたく思います😉🤚

江戸の始まりについて話します。
15世紀の享徳の乱(1454年〜1483年)
のときに #太田道灌 さまが #江戸城築城
交通の弁から政治的な拠点ともなり、
天正年間後半(1580年代)には北条氏政さまも
政治の拠点としました😉🤚

また小田原征伐時に関東の各支城が落ちるに従い
#羽柴秀吉 さまは北関東・奥州に向けての御座所設置を
指示していたとのこと❗️
秀吉さまは東海道そしてさらに先の奥州街道を
掌握する目的だったということです。

そして、秀吉さまが家康さまに
本城は江戸がよかろう、と言うたんは、
浅野家文書で見ることができるとのこと。

#豊臣政権 における関東・奥羽統治拠点、
現代の会社で言うと、豊臣会社・関東支社が
カバーするエリアは関東・奥州だった、
ということです。

4 徳川関東惣領国を少し詳しく

家康さまが関東に移封されたエリアは
前回までは国名・現代の県名でざっくり話して
きましたが、もう少しだけ詳しく話しておきます。

基本は旧相模北条家両国を賜ったのですが、
他の大妙との微妙な関係で、少しだけ狭くなりました💦

  • 伊豆・静岡県の伊豆半島部分

  • 相模・神奈川県の西南半分

  • 武蔵・埼玉県・東京都・神奈川県の北東半分(相模+武蔵=埼玉県・東京都・神奈川県です)

  • 上野の南半分・群馬県の南半分で高崎市や前橋市を含むエリア

  • 下野うち佐野を囲んでほんの少しだけ・栃木県の佐野市の周囲の小さなエリア

  • 下総・千葉県うち北側1/3くらいで千葉市や佐倉市、松戸市など含む

  • 上総・房総半島の先っぽ安房を除く房総半島(下総・上総合わせて千葉県の房総半島の先っぽを除くすべて)

これまでの東海地方の本領国と比べると
巨大な惣領国となり、少し先の
1596年・慶長元年ころ、のちに話す
徳川関東惣領国惣検地後の知行高は、240万2千石、
近江国の在京賄領を含めると250万石オーバーでした❗️

これまでは、遠い国のみ支城城主を派遣し
その数は少なくて済んでいた東海地方の
徳川家惣領国とは異なる統治を家康さまは
お始めになります😉🤚

5 徳川総領国における人員配置の3重構造

#徳川関東惣領国 の核は、話してきたように江戸です。
#惣領国に対して徳川 #本領国 、つまり
家康さまが直轄する範囲はとこまでだったのか❓
これが3重構造のその1です❗️

家康さま直轄地は、武蔵国南部・相模国北東半分
および飛地の伊豆でした❗️
現在の土地名で箇条書きしてみます。

  • 東京都すべて

  • 埼玉県南部(大宮とか川越とか所沢とか)

  • 神奈川県北東部(川崎とか横浜とかもっと山の方とか)

  • 静岡県うち伊豆半島

ここに、相模国の小田原部分を加えると
相模北条氏の本領国とほぼ同じで、
さらに相模北条氏の支城だった
八王子・鉢形(寄居)・岩付(大宮)や
下総国葛西地区(東京都葛飾区・江戸川区)を
配合していました。

本領国内の周辺部には、徳川氏ご一門衆領が
以下のように設けられました。
これが3重構造その2です。

  • 武蔵国・忍(おし)埼玉県行田市に家康さま4男の #松平忠吉 さま

  • 下総国・小金、千葉県松戸市その後領地替えで、下総国・佐倉に家康さま5男の #武田信吉 さま

  • 下総国・関宿、千葉県野田市に家康さま異父弟の久松 #松平康元 さま

これらはいずれも徳川関東本領国の東〜北に配置され、
その方面に対する防備と、利根川・荒川の
水上交通・流通の保全を考慮しての配置でした☺️

3重構造のその3です。
徳川関東本領国のその外側には
徳川家ご譜代の重臣たちが
家臣ながら大名的に支城配置されました。

  • 相模国うち小田原に、 #酒井忠世 さま

  • 上野国・箕輪、群馬県高崎市に、 #井伊直政 さま

  • 上野国・館林に、 #榊原康政 さま

  • 上総国・万喜(まんぎ)、千葉県いすみ市のちに上総国大多喜、千葉県大多喜町に #本多忠勝 さま

  • 下総国矢作、千葉県香取市に #鳥居元忠  さま

  • 下総国臼井、千葉県佐倉市に #酒井忠次 さまご嫡男の #酒井家次 さまを武田信吉さま後見として

これら重臣の配置は、
中山道や奥州街道が水戸街道が江戸に入ってくる
エリアを挟むように設けられていました、
そして、井伊直政さま・榊原康政さま・本多忠勝さまの
配置には羽柴秀吉さまのご意見もはんえいされている、
つまり徳川家の重臣として江戸を防備するのは、
それすなわち江戸からの各方面への街道をキッチリ
押さえておく、という #関東奥両国惣無事 事業の
一端を中央政権官僚として保全していく
という重積をも担ったのでした❗️

このような3重構造を軍事面・政治面・経済面から
築いていくという家康さまの役割は、
将来全日本統治をしていくための、実に練習と
なっていきました😉

そして同時に徳川家重臣たちも、
中央政権の大名として振る舞うことを
覚えていくプロセスになりました❗️😉🤚

6 江戸湾制海権について・惣領国統治方法

3重構造配置のその3うち、
本多忠勝さまの上総の押さえは特に重要で
上総を押さえることで、江戸湾の制海権を
把握することができるのです。

以前は安房里見氏が上総を支配していて、
江戸湾の向かいの相模北条氏と制海権をめぐって
いざこざや戦闘が頻発してました。
本多忠勝さまを上総に入れたのは
安房里見氏やその他、江戸湾をめぐっての
不測の事態に備えたのです❗️❗️

総領国統治にあたっては、
これまで通り以下のような進め方でした。

  • 地域ごとにこれまで行われたやり方で無理なく統治する自治運営を支城城主に任せた。

  • 一反=300歩での検地を行い基本は石高制を採用したが、土地によっては永楽銭をもちいる永高制を採用して、変換レートもキッチリ決めた❗️

  • 徳川本領国では、代官が任命され、地域ごとに陣屋を設けて、その地域の経済・通信などの整備に当たらせた❗️

家康さまどうやら関東移封後の
重大なご責任をお果たしのようですー☺️🤚


7 次回

徳川関東惣領国の統治を軌道に乗せた家康さまっ😉
これから徐々に上方で中央政権の政務を執るように
なっていきます☺️🤚

家康さまの豊臣政権でのお立場は
どのようなものだったのかっ❓
そしてどのようにお立ち振る舞いなさったのかー❓☺️



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