京都と狐
妖狐
京都には妖狐の話が、たくさんあります。その中で、最も怖ろしい話が、九尾の狐です(見出しの画像は、三国妖狐図絵。出所:太田記念美術館https://otakinen-museum.note.jp/n/n9cebaaec4e7d)。
九尾の狐は、中国の殷王朝を崩壊に導いた後、インドに渡り、さらには、平安末期の日本に来たとされています。日本では、玉藻前として鳥羽上皇に寵愛されます。上皇の寵愛は日増しに深まっていきますが、それと同時に上皇は病に伏してしまいます。そこで、陰陽師の安倍泰親が派遣されます。泰親は、病の原因が玉藻前であることを見抜き、その正体が九尾の狐であることを見破ります。泰親が祭文を読み上げると、九尾の狐はその正体を現します。そして、東に逃げていきますが、下野国那須野ヶ原で退治され、殺生石となりました。その石で地蔵菩薩を刻み、鎌倉に地蔵堂が立てられました。その後、その地蔵堂は、お告げによって、京都の真如堂に移されました(下の画像は真如堂です。画像出所:真如堂https://shin-nyo-do.jp/)。
現在、この真如堂の中に、鎌倉地蔵堂がありますので、機会があれば、ぜひご覧になって下さい(下の画像は鎌倉地蔵堂です。画像出所:真如堂 https://shin-nyo-do.jp/grounds/)。
宗旦狐(そうたんぎつね)
一方、可愛い化け狐のお話もあります。それが、相国寺に伝わる宗旦狐です(下の画像は、相国寺と宗旦稲荷社です。画像出所:相国寺 https://shin-nyo-do.jp/)。
千利休さんの孫で、千家三代目の千宗旦さんが、相国寺で茶会を行いました。実は、狐が化けていました。でも、そのお点前があまりにも見事で、参加した茶人の誰もが気づかなかったそうです。その後、本物の宗旦さんが現れたことから、バレますが、狐は詫びたので、皆に許されました。このことから宗旦狐と呼ばれるようになります。その後、狐は人に化けて、修業をしたり、碁を打ったりして、人々と交流していました。もちろん、周りの人々は、それが狐であることは十分承知しています。狐は、さらに、寺の財政難を救ったり、近所の店を繁盛させたりして、貢献します。そのため、皆から、愛されることになります。有る時、狐は、大好物である鼠の天婦羅を食べたため、神通力を失い、狐の姿に戻ってしまいました。そのため、それを見た犬に追われ、井戸に落ちて亡くなったと伝えられています。相国寺や近所の人々は、この狐を哀れみ、相国寺内に祠をつくって祀ったそうです。これが、宗旦稲荷社です。
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