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現実は目の前にある、という感覚が我々を支えているが、目の前にある現実は全てではない、という意識が、我々を常に不在へと動かし続けている。


自ら動かないという意志も、また動けないという認識も、目下動いていないという現実に対する、余剰かつポテンシャルな抵抗であることを我々は知っている。

私が時に風車へと向かうのは、風車が私にとって意味を持つからというよりも、風車にとって私が何物かでありたい、と思うからである。

柄谷行人との対談で蓮實重彦は、小林秀雄の『本居宣長』を「『君の名は』みたいだ」と切り捨てたが、それを単に定まった筋立てを追うものと取らず、自己の裡の未知の一筋を辿ろうとしたものとすれば、案外適評であるかもしれない。多くの聴き手や読者を得た点でも然りである。

思わぬ人との出会いは、自分がある時の隔たりを経て、いまここにあることを意識させる。のみならず、〈いまここ〉自体が時間の継起そのものであることも。そして、自分自身も又。

「令和」との出会いは、今後の〈いまここ〉へと引き継がれ、我々の継起の場の別名として馴染んで行くだろう。我々自身が継起としてある限り。やがて絶えるものとして。

君子よ尋ねることなかれ
かの乙女等は何処へと
ただ繰り返し口にせむ
去年(こぞ)のあの雪いま何処
  ヴィヨン     私訳



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