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書評『愚直なまでに青春ドラマな映画評論』谷岡雅樹著『竜二漂泊1983 この窓からぁ、なんにも見えねえなあ』三一書房刊 初出:『月刊シナリオ』2013年10月号

本 文

 この谷岡雅樹著の『竜二漂泊1983 この窓からぁ、なんにも見えねえなあ』(以下は『竜二漂泊1983』と記す)を『仁義の墓場』(’75年東映 監督・深作欣二 主演・渡哲也 脚本・鴨井達比古)の「石川力夫のような本」である、と評すのは穿ち過ぎなのだろうか。戦後の無秩序状態から徐々に秩序が回復されていく中で、ヤクザより次第に小利口な小市民のようになり始めた親分や兄弟分に対し、「ある時点」に拘り時流に乗れないまま上下左右関係なく牙を剥き斬りかかって行った愚直なヤクザ、石川力夫。映画『竜二』(監督・川島透 脚本&主演・金子正次)と「その時代」を検証していく谷岡雅樹が、脳内で巡り遇った人物を「ヤクザか市民か」をキー・コンセプトとして歯に衣着せず本音で批評していく筆致に、私は石川力夫が重なって仕方がなかった。
青春ドラマの定義の一つを「何を以って生きて往くべきなのかが判らない若者が主人公」だとすると、『竜二』が公開されセンセーションを巻き起こした1983年時点では「何を以って生きて往くべきなのかが判らなかった」二十歳の谷岡青年が、『竜二』と金子正次に遭遇して衝撃を受けたことに拘り続け30年後に上梓したこの本は、単なる映画評論に留まらず谷岡雅樹の「青春ドラマ」になっていて当然なのだろう。自分のトラウマ(青春の残滓)を確認するかのように「ある時点」=1983年周辺(正確には’78年から’83年)に拘り、映画界と芸能界と自分の右往左往を記している内容からもそれは明らかだ。『仁義の墓場』が優れた青春ドラマでもあったように。
1983年(昭和58年)周辺は、映画界で云えば1976年にプログラム・ピクチャー・キングだった高倉健が東映を去り、1979年に『トラック野郎』シリーズ(監督・鈴木則文 主演・菅原文太)が終了した時点で大手撮影所発のプログラム・ピクチャーズは寅さんとロマン・ポルノを残してほぼ瓦解していた。しかし、撮影所育ちの巨匠、ベテラン監督たちと撮影所周辺で育った若手監督たちが、撮影所システムではない製作システムで拮抗して作品作りを競い始めていた面白い時代でもあった。ディレクターズ・カンパニーに象徴される若手監督集団やNCP等のプロデューサー集団、ブレイン・トラスト(後のメリエス)等の脚本家集団も参入し、フリーの助監督だった私も「映画」を撮れるかもしれないッ、と胸を奮わせた熱い時代。昭和30年代の撮影所黄金期の作品群を浴びるように見て育ってしまった我々世代が、それら作品群の「残り香」を求めて犇めいていた映画人最後の時代と云っても良いだろう。
谷岡は、『竜二』をその時代の象徴的な作品と捉え、川島透監督と金子正次が具現化した「竜二的なモノ」に拘る、トコトン拘っていく。
谷岡の「竜二的なモノ」に拘る筆致は、『竜二』公開までのバック・ステージをフィクションとして描いた拙作『竜二Forever』(’02 原作・生江有二 主演・高橋克典 脚本・細野辰興、星貴則)と符号している。谷岡が『竜二漂泊1983』で拘っていることを私は、「竜二に成れるか? 」と云う主題で模索していた。谷岡は、「『竜二Forever』は傑作だ。だけれども、その年のキネマ旬報ベストテンには一票も入っていない。」と『竜二漂泊1983』の中でその理由を自己分析するかのように触れているが、その『竜二Forever』と監督である私にも更に容赦なく言及して来る。(私と私に関係する情報に少なからぬ誤りがあるのは些か困ったことだが。)否、『竜二Forever』だけでなくTVドラマ『とんぼ』(脚本・黒土三男)にも『俺たちの旅』(脚本・鎌田敏夫他)にも、そして谷岡が恩師と慕う脚本家、神波史男の死にも容赦なく言及してくる。否、当時の映画人、芸能人、ミュージシャンでこの本の中に名前が出て来ない者は居ないのではないかと思うほどのオンパレードだ。「竜二的なモノ」「金子正次的なモノ」を手探りしながら正に右も左もなく満身創痍も厭わず谷岡はこのパレードに斬り込んでいくのだ。

「貴方は、ヤクザですか? 市民ですか? 」

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