不動産の「流動性」について

 闇クマさんが田端さんの「2800万円の含み益」問題にツッコミを入れいたので、私も調子に乗って少し戯言を書いてみます。↓

 

 この指摘はとても重要で、「含み益」という甘い言葉には、多くのマジックが絡んでいるのです。で、当人たちは「持ち家マジック」でそれと気づいていない。単純に、足し引きして持ち家のほうが得であるのが明らかであるなら、「賃貸×持ち家」論争にはとっくにケリがついているはずです(持ち家派の私が言うのもなんですが、今回はあえてそこから距離をとってみます。)。

 少し前に「半投半住」なんていう言葉が一部の界隈で流行りましたけど、サラリーマンが使える与信には限りがあるのだから、その限りあるリソースを実需に振り向けた時点で、あと半分は投資ですよ、なんて、本来的に効率が悪すぎる(この理屈がわかる人は案外少ない。)。自分が住んでるマンション、買い換えるにしても貸すにしても、自分は次を買わなければいけないわけでしょ。自分が売りたい時はみんなにとって売り時なのです。自分にとってだけ売り時で、あとはみんな買い時、なんて、あり得ない。これはある種のゼロサムゲームです。

 持ち家を資産として捉えている人たちの中には、「都心マンションの流動性」を過剰に信奉している人たちがいる。そもそも、不動産を金融商品として捉えるなら、それは最も流動性の低い資産なわけです。金融商品の価値は、その流動性によって担保されるとするなら、不動産を優れた金融商品であるかのように謳う見方はナンセンスそのものです。

 彼ら(流動性至上主義者、とここでは言っておく)は、売れるものだから買うべきなんだ、という。でも、最初から「売らない」という選択肢もあるわけで、実際、世の中の殆どの人たちにとっては、マイホームの購入なんて一生に一度なわけです。そういう人たちからすれば、持ち家の流動性なんて、はっきり言って「どうでもいい」のです。

 始めから「流動性」なんていう「幻想」を求めないで(私はある意味「幻想」だと思っているのですが、なかなか理解してもらえません)、サラリーマンとして使える与信をフルに使って、ある意味では壮大な箱庭に過ぎない自分だけの城を買う。住むために買うんだから、市場価値なんか端から考えない。そういう意味では、バブル期に作られた無用の長物だって、住みたいという人がいればそれは立派な「商品」として成り立つ。

 あえて皮肉った言い方をすると、流動性がどうたら、なんていうのは、いずれその家から出ていくことを考えて家を買う、という意味では、よほど合理的かつ「滑稽な」発想なんです。それを論じる当人たちはちょっと酔いしれているから、その滑稽さに気づかない。か、見て見ぬふりをしている。流動性至上主義者たちは(特に都心に住んでいる方に多いのだけど)、一戸建ては人生の終わりだという。果たして本当にそうだろうか?バランスを持って物事を見るなら、買い替える必要のない資産を買うのであればその市場価値は具現化しないのだから、そのような価値を重視しても無駄である、とも言える。

 流動性が非常に高いから湾岸タワマンは人気である。田端さんがそこにポジションを取っているのは、近隣に住む私にとっても理解ができる。しかし、ポジショントークをするのであればバランスをとったうえでポジションを取りにいく方がスマートに違いない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?