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ママは台湾人


知っている人も多いと思うけど、わたしの母は台湾人。
いわゆる私は”ハーフ”ということになる。ただ、実際日本生まれ日本育ち、今は日本国籍だからほとんど日本人です。笑
血だけです、半分なのは。


そして今回はママとパパの国際結婚についてわたしが経験したこと、大人になって感じてきたこと。
少し書こうとおもいました。

途中結構リアルな日本での国際結婚、その子供のことが書けたと思うので興味があれば少し読んでいってみてください。

なぜこんな事を書こうと思ったか、その理由は先日私のお母さんの姉が急死してしまったから。この出来事が辛すぎて、感じたことを書き留めたくなりました。

以前にも台湾の家族が亡くなることはありました。実際おばあちゃんが亡くなった時は私はまだ小学生。命の大きさにそこまでちゃんと向き合えてなかったのと、会う頻度が少なかったから息ができなるなるほど泣きじゃくることはなかったんだと思います。
大人になって改めて、感じたこと、やらなきゃいけないことが見えてきたので少し書いていきます。思い出と一緒に書き留めていきます。
約7000文字です。お時間くださいませ^^



ママは台湾人、パパは日本人

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そのままの通り、私はハーフとして生まれて30年。台湾人のママは日本人レベルで日本語が上手になったので基本気づかれない。学校でハーフなのは学年で私一人、そして兄弟の学年の中でも一人という、こういう家庭がまだ珍しい時代。多分田舎だったからなのかな?都市はもっといたんだとおもうけど。めんどくさい時は”日本人じゃないからわからない”と答えてた。今思えばそんな理由アホなんかなって思う。笑
ママとパパの出会いは、パパが台湾に仕事があって行っていた時にママに一目惚れをしたらしい。(本当かな?笑)当時は連絡手段もなく何度か台湾に行ってはママを探し、やっと見つけた時にはママには付き合ってる人がいたと聞いた。付き合っていたのはパイロットだって言ってた。(本人から聞いた話だけど本当なのか疑っちゃう娘。笑)パパからの結婚の申し込みを悩んでた時に、おばあちゃんに相談したら『こんなに思ってくれる人なかなかいないよ。日本に行っておいで』と言われ、日本に来ることを決めたらしい。そしてめでたく?結婚をした。
台湾は雪が降らないから、ママが初めて雪を見た時に『ゴミが降ってきた!!』と騒いだらしい。笑 でも初めて見るものにはびっくりするよね、普通。笑


だいすきな台湾の家族

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夏休みに行く台湾が好きだった。従兄弟やおじさんおばさんにあえるから。
ママの実家は台湾の山。新竹市の白蘭部落。台北からは車で約2時間半。山道は舗装されていなくて、かなり険しい。クルマ酔い必須。笑 昔トラックの荷台に乗って移動してた時に道から外れて落ちそうになったのはある意味トラウマになっている。
おじさん、おばさんはいつも麻雀をやってた。文化として根付いているんだろう。麻雀の台は絶対おいてあった。
”勝ったらお金ちょーだい!”というと”当たり前よ!”と笑顔で返ってくる。お金をもらった記憶はないけど。笑
いつも私たちは外で遊んだり、たまに中国語のあいうえおだったり、言葉遊びをして遊んでいた気がする。従兄弟だったり、近所の子達だったり。
ママから後々聞いた話だと、幼少期は中国語で話をしていたらしいが、基本いつでも日本語使うからちゃんと話せるようにはならなかった。
休みの間は家族と台湾のいろんなところへ行った。六福村という遊園地?では初めてラクダに乗ったり、他にもBBQをしたり、川遊びをしたり。外に食べに行った時、日本食レストランにも行ったが美味しくなかった記憶が強い。そして日本に戻る時に絶対友達にお土産を買っていく。物価も安いから、夜市でのお土産選びはとても楽しかった。
行きも帰りもいつも送り迎えをしてくれる。空港では別れが寂しくていつも泣いていたけど、今でもまだ泣きそうになる。
私はいつでも楽しくしている台湾の家族が大好きで、夏休みがいつも楽しみだった。
おじさんとおばさんが台湾から日本に来ることもあった。遊びだったり、仕事だったり。高校の頃は台湾の家族が仕事で日本に来ると私は学校を休んで仕事について行ったりもして。(学校行け!笑)空港までも送りに行っていた。私にとって台湾の家族との時間は学校よりも大事だったから。学校は補習受ければいいもんね!^^



ママかパパか選べと言われた日

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私たちが大きくなるにつれて、両親の喧嘩が多くなってった。いつの日か大喧嘩して、離婚騒動になった時に、初めてママとパパどっちについていくんだと聞かれた。※離婚してません
日本には友達がいる。でも、私はなぜか台湾に行くっていった。もちろん悩んだけど、台湾のこともたくさん知りたかったから。まぁ、なんだかんだ最悪の事態にはならずに普通に日本で生活してたけど。
ただ、この頃から国籍は台湾にするって思ってた。パパに”美華たちは20歳になったら国籍を決めなきゃいけないんだ”と言われ、それなら私は台湾人になりたい!と思っていた。
ただ、専門学校で忙しい日々を過ごしていたら勝手に日本国籍になっていたのだ。笑
なので日本人として生きてくことになったが、逆に今は後悔してない。世界一の最強のパスポートがあるからね。
しかしなぜ日本の血が混ざると国籍を一つにしなきゃいけないんだろう。でも国籍が日本でも、私の中には確実にママの血が流れてる。だから私はこれからも半分台湾人なのだ。



おばあちゃんが亡くなった

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小学生の頃台湾のおばあちゃんが病気で亡くなった。子宮癌、だといっていた気がする。
亡くなる前に行った時も時々調子を崩して部屋にみんなで集まることもあった。
その頃は死とあまり向き合えていなくて、悲しいと思う感情は今より薄かったのかな。ただ、ママが泣いてるのは辛かった。
親の死目に会えなかったママ、ぼくらは学校があるからママは一人で台湾へ。無事に葬儀も終わって少しビデオを残していてくれてみたいで、みんなで見たけれど、やっぱり辛かったな。家族の死はこの時で2回目。初めては私がまだ全然小さい頃、父方のおじいちゃんが初めてだった。小さい頃はまだ死と向き合えていなくて、どんどんやっと大人になってしっかり気付けるものだってことを実感。今では信じられない涙の量。立ち直るのに時間もかかる。
自分が弱くなったのか、強くなったのか。それとも人に優しくなれたのか、執着してしまっているのか…。



日本人になりたかったとおもった時期

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まだ国籍が二つあった頃、ママが日本人じゃないってだけで変な顔をされる時が時々あった。ほとんどは受け入れてくれるひとばかりだったけど、たまーに、ほんとごく稀に差別するひともいたのだ。
”日本人じゃないんでしょ、お母さん。”
みたいな。
やっぱり日本人がいいよねーと言われる事もあった。
『同じ境遇に自分がなった時に、おんなじことを他人に言われたらショックじゃないの?』
毎回思った。いっときそれが続いたことがあって、自分が悪いのかな?と勘違いしてしまうこともあった。でもそれってちがくない?同じ日本で日本人と同じように生活してる人に言う言葉かしら?私のママがあなたに何をした?他の台湾人があなたに何かした?
怒ったり、落ち込んだり。思春期の時期に多くあったかな。今は周りにも同じ境遇の子にもたくさん会えたし、芸能人にもハーフタレントが増えてくれたから前向きになれたかなと思う。昔の軽い差別は今はほとんどない。ただ私たちがその時に出会えなかっただけなんだと思う。違う土地にたくさん居たんだ。今はSNSとかでいくらでも探せば出てくるし、いい時代になったなと本当に思う。電話だってLINE電話で無料だ。昔は国際電話を繋いでバカみたいに高い料金を払って話ていたんだもの。


会えなかった12年間

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中学、高校、専門学校、社会人…大人になるにつれて、台湾に行くことが無くなった。家族の時間も少しずつ減って行ったから。そんな時に台湾の従兄弟が『結婚式をやるから、美華くる?』と連絡をくれた。仕事を休めるかもわからなかったけど、行きたいから上司を説得。(私超ブラック会社にいました)無事に4連休を勝ち取りパパと台湾へ。ママはこなかった。日本のおばあちゃんを見てくれていたから。本当はママと一緒に行きたかったんだけどね。。。
最後に行ってから12年も経っていたなんて行くって決めるまで気付かなかった。初めて自分が稼いだお金で航空券を買って、台湾行きを決めた。その時はLCCを知らなくてJALを使って一人5万くらいだったかな。それでも昔よりは全然安くなっていた。
まず空港について迎えに来てくれたのを見てすぐに泣いちゃったよね。久しぶりにあったおじさんとおばさんはとても小さく見えた。台湾の実家の方でおじさんは”白蘭山荘”と言うコテージをやっていて、昔行った頃とは全然違う雰囲気になっていてとても綺麗だった。そこから見える景色は変わらず、雲海がとても綺麗で吸い込まれそうだった。12年も経つともちろん台湾の雰囲気も全然変わっているし、私が知っている台湾はもうほんの少ししか残っていなかった。寂しいのもあったが、日本も同じくらい変わっていたのかなと感じた。
従兄弟の結婚式でおじさんおばさん、他の従兄弟たちにも本当に久しぶりに会えたのだが、私も社会人になったし、もちろんみんなすごく変わっていた。やっぱりみんなの背中は小さく見えていた。
結婚式に呼んでくれた従兄弟夫婦にすごく感謝してる。やっぱり家族には会えるうちに会わないといけないと感じれたから。出来るだけ頻繁に会えるようにと決めてもやっぱりなかなか簡単には行かなかったけど…。


↓いとこの結婚式◎

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そこからまた3年…

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結局なかなか行くことはできなかった。できなかったと言うか、財力もある程度付いてきて、違うことを優先しすぎた結果、行かなかったの方が正しいかな。親友が台湾に行ってみたいと言ってくれたから、家族に会いたいなぁと思って旅行を計画。弾丸で行ったけどほとんど従兄弟が一緒に回ってくれていたから迷うこともなくすんなり過ごすことができた。
ただ、台湾についてからすぐに『今一番上のおじさん入院したんだけど、美華会いたい?』と言われ、何が起きていたのかさっぱりわからなかったし、なんで入院しているのかもわからなかった。そして半身不随になっているとも聞かされた。なぜ教えてくれなかったの?と聞くと、『日本の家族には心配かけたくなかった』と言われてしまった。すぐにでも会いたいと言って、迎えにきてもらってすぐに病院に向かった。おじさんおばさんみんな集まって待っていてくれた。私が病室に着いて、おじさんの名前を呼んだ瞬間叔父が泣き崩れた。抱き抱えて、私ももっと早く、もっと多くあっておけばよかったと本気で後悔した。だって。本当に半身不随で右が動かなっくなっていたから…。家族がいつまでも元気でいることはできないんだとやっと気づいた。いつ永遠に会えなくなるかなんてわからない。私だってそう。会える時にあっておかないと後悔する。



結婚の報告

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↑一番上のおじさんが撮ってくれた^ ^

自分が結婚したら絶対台湾の家族にもきて欲しかった。もちろん全員がこれるわけはないから、おばさん一人だけ。本当は私を結婚式に呼んでくれた従兄弟も来るはずだったけど、足を怪我して日本に来れなかったから、結婚の報告は私達夫婦が台湾に旅行に行く程でみんなに会いに行くことにした。
旦那を台湾につれて行き、ホテルは街中にとり、今回も従兄弟が迎えにきてくれた。旦那の初めての台湾は蒸し暑く、風の強い日。日程も少ないから駆け足の旅行になった。観光地にも行きたい、家族にも会いたい、もうてんやわんや!笑 2年前に入院していたおじさんは退院して自宅でリハビリをしているそう。杖があれば歩けるようにもなっていた。私たちのためにたくさんの家族が会いにきてくれた。そして、昔一緒に遊んでいた子も。嬉しかったし、あったかいなあと感じた。日本にいたら感じることはない感情。早く日本の家族みんなで台湾に行こうと思った。姉も、弟が知っている台湾から今はかなり変わっている。姉にも家族ができた。余計私はママとパパが作ってくれた繋がりを大事にしたいと強く感じた。2020年、家族みんなで台湾に行こうとしていた。大人数でね。笑 



ママとの二人帰省計画

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長いことママは台湾に帰っていなかったから、息抜きに一緒に台湾に行こうと誘った。航空券もとって、少し長い休みを二人で取った。それが2月の後半、私達は行くことができなかった。正確には無理やり行くことはできたのだが、ママは喘息持ち、私は美容師で接客業。年配の家族に会いに行くにはかなりリスクがあった。

”コロナウイルス ”

なぜこんな時に…。渡航は自粛し、いつの間にか日本人の入国まで禁止になってしまった。私からしたらかなり苦渋の決断だった。”家族に会いたい、ママを家族に会わせたい”が強かったから。しかしここで家族誰かがコロナになったら…そっちの方が絶対後悔すると思い泣く泣くやめた。台湾の家族も最初は大丈夫だからおいでと言っていたのが、いつの間にか

”現在還不能來,台灣不能進來!”
『今は台湾にはこれない!』

と強く送ってきた。笑 昨日までは大丈夫って言っていたのに、、少しおもしろおかしくなってしまったが、そんなおじさんもとても私達を心配してくれたんだろう私達ももちろんとても心配だった。。。

ウイルスがなくなったらまた会えるから
今は会わないよ、と。

早くコロナがなくなって、早くみんなに会いたい。日本の家族もみんな同じことを考えていた。とても前向きだった。


二人の死

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コロナで世間が騒いでる時にママから泣きながら電話がきた。

”ママの従姉妹が亡くなった”

私はママの従姉妹にはほとんど会ったことはなく、小さい頃に会ったきりだったからほとんど記憶にはなかったけど、ママからしたら、一緒に家族として過ごしてきた時間が確かにある。私がまだ小さい頃、彼女は私のことを抱いてくれたそうだ。彼女には子供ができなくて、抱っこした時に嬉しそうだったと教えてくれ、私の家族だとそれを聞いてやっと認識できた。ほとんど覚えてはいない、でも彼女は私の家族だった。彼女は病気でずっと入院していたと聞かされた。心配かけたくなくてママには言わなかったと後から聞いたそう。ママが『何をしてるんだろう。何もしてあげられなかった』と電話の先でずっと泣き止まなくて、胸が苦しかった。

そしてその約一ヶ月後、ママから夜中に電話がきた。夜中の電話は基本的に私は取らないのだけれど、夜中にママからの電話は滅多になく、”どうしたの?”と普通に声をかけた。

”ママのお姉ちゃんが亡くなった”

最初は意味がわからなかった。だって死ぬわけないじゃん?9月あんなに元気だったし。電話が切れるまで私は理解できなかった。電話を切り、旦那に話した瞬間に涙が溢れるように出てきた。私達を可愛がってくれてたおばさん。大好きなおばさん。なんでいなくなっちゃったの?
家族の強い尊重があったから司法解剖はしなかったと聞いた。だから原因はわからない急死だった。
本当は今すぐにでも会いに行きたい、次の日にでも行きたかった。でも日本人は入国禁止だし、台湾に入れるのはママだけ。ママがいっても二週間隔離。おばさんの葬儀にはどう頑張っても間に合わない。
悔しかった。無理やりに二月に行ければママだっておばさんに会えた。何年も会えてないのにこんな別れなんて辛すぎるよ。。

”今は会わないでいよう”

が、永遠の別れになるなんて、誰が想像した?
次会うときは長い休みを取って家族みんなで台湾一周だ!なんて約束だってしていたよ。

死が突然すぎて理解ができなかったし、今はウイルスが憎すぎる。でもこんな後悔したのは自分のせいだと思った。”もっと会っておけばよかった”なんてさ。



今こんなときだからこそ


本当に、せめてコロナが世界を蝕んでなかったら、おばさんの最後にも会いに行けたのに、2月にママと台湾に行ってみんなにも会えたのに…
今はたくさんの”もしも”がつきまとってしまって、後悔まっしぐら。だからこそ、もっと会っておかなきゃいけない人たちがいることに気づけた。早くコロナがなくなって、家族に会えるようになりたい。だからこそ今は耐えるしかない。自分にできることは本当にそれだけ。悲しいことに、たくさんの”死”がそれを教えてくれている。
もっと事の重大さに気づいて自覚を持って行動してほしい。
自分は大丈夫、ではなく、大切な相手のこと想ってほしい。

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誰かの大切な人を救うのは誰かじゃなく自分です。

そしてこの騒動が終わったら、会いたいとおもう人にどこにでも会いに行ってください。遠くても、生きていれば会いにいけます。世界のどこかならば…^ ^

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