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伊勢 ② 内宮お参りと感謝 | tabi.12


なんてきれいなところに
来てしまったんだろう、
心の中から出てきたのは
そんな声だった。

その日、高気圧が関西から関東にかけて覆い、昼の東京では27度くらいまで上がる夏のような日だったと聞いた。11月に入ったのだというのに。
私は西日本にいた。伊勢の昼も、和やかに初夏に向かうような日和だった。でも朝は冷えていた。

伊勢駅から15分くらいバスに揺られ、伊勢神宮の内宮に着いた。礼拝者はいるものの大きく混んではいない。透き通った空気に、朝日が差し込んで輝いている。


入り口の鳥居に近づくと、人々が鳥居に向かってカメラを向けているのが見えた。ちょうど太陽が顔を出し、鳥居の中に見えるタイミングだったのだと思う。
濡れた橋にも朝日が反射して黄金の道を歩くようだった。


ところで、お伊勢さんは基本的には〝お願いごと〟をする場所ではないのだという。地元の人に教えてもらった。〝感謝を伝える〟のだと。

はじめ、よくわからなかった。

感謝とは、「してもらったことに対して与えるもの」そんな思考になってしまっていたのだ。二者が相互に関わって、お互いに利を得た分だけ感謝を伝える。いつのまにかそう、思考が固定されている。
実利を動かす仕事に関してはある程度、そんな考え方でできていると思う。こうしたお参りだって、お礼参り、という言葉もある。願掛けをして、願いが叶ったらお礼を伝えに再度自社を訪れる。

だから「初見であるお伊勢さんに伝える感謝とは?」と、わからなくなっていた。

ふだん、〝見返りを求めないようにしたい〟って考えようとする中で、いつのまにか知らないうちに、見返りを返さないとならない思考になり、つまるところ見返りの裏か表かで生きていたのだ。

〝求めない〟なんてキレイごとで、当たり前に厚かましく生きていることに気づかされる。

そんなことを思いながら、落ち葉掃除の方がほうきできれいにまとめていく砂利道を歩いた。


少し先を歩く人の息が白い。
木漏れ日が吐息の影を映している。

もうすぐ、二礼二尺一拝で手をあわせるのだけど、じゃあ私が今感謝することって何なの?って思ったら、いくつもあった。


・大きな怪我や病気をしていない。
・目が悪いけど、コンタクトのある世の中で
 生きられているから目が見えている。
・何とか生きる分を稼いで生きられている。
・天職を認識できた。
・けんかばかりでも、成果を出すために
 切磋琢磨できる仕事仲間がいる。
・両親の顕在。
・人を好きだと思う気持ちを
 教えてくれたひとがいる。
・今日もいつもの自分で、
 伊勢を訪れられた自分がいる。

ほかにもある。

カウントしてみると、なんだか十分な幸せは既に手の中にあるのだと思った。

そんな気持ちで手をあわせた。

ところで、感謝を伝えるべきお伊勢さんでも、私みたいなお願いごとしたい民のために、いてくれる神様も敷地の中にいてはる。

ひとつだけ、お願いごとをした。
自分だけではどうにもできないことだから。

この神様には、叶ったらお礼参りにきちゃるけん。待っててや。

かくして、私は鳥居をくぐり
朝のお参りを終えた。
自由時間の終わり。


大それたことはなくたって
当たり前の毎日
全てが大切と知った。


ありがとうございました。
よい週末を👍



Aoi 314