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森のほとりで

優男×喘息もち
サイトで公開していた「夜明け前」のリメイクと、その続きです。


「けほっ……っ、げほっ」

 苦しそうな声が聞こえて、遼生は目を覚ました。身体を横たえていたベッドの上で右側を見ると、ぽっかりと暗闇しかなかった。

「いち?」

 なんとなく声を潜めて遼生が名前を呼ぶと、咳き込んでいた苦しそうな声が一瞬びくりと止まって、けれど耐えられないように、続いた。

「っう、けほっ……」
「大丈夫?」

 サイドテーブルの灯りをつけると、寝室がぼんやりとオレンジ色に染まった。ベッドから下りた冷たいフローリング、壁とベッドの隙間に入り込むようにして、いちの小さな背中が見えた。
 遼生がベッドの上から近づくと、きしりとスプリングが鳴った。蹲っていたいちは、さらに身体を小さくして、震えた。

「ん、ぅ……っふ、」

 声を漏らさないように口に手を当てて、いちは身体中に力を込めていた。もうバレてしまっているのに、その健気さに心が痛む。遼生はそっといちの肩に触れた。

「いち」

 びくっ、といちの肩が震えて、それをきっかけに箍が外れたように咳き込み、身体を折った。

「げほげほっ、けほ、っ……」

 頻繁に起きる夜の発作は、持病の喘息と心因性のものと言われていて、うまく呼吸が出来なくなるのだという。こうして夜起きることに慣れてしまうほど何度も起きているのに、一度もいちは遼生に助けを求めることはなかった。こうして隠すように、声を潜めて自分ひとりで耐えているのだ。
 もう抵抗する気力すらなくなったいちを遼生が抱え上げた。ベッドの上に座らせて、頭を抱えた。

「ひっ……」
「俺に合わせて息して、ゆっくり」

 恐怖で一瞬引きつったいちの呼吸に、遼生の胸がきりっと痛んだ。まだ心を開いてもらえていないのだと痛感する。
 遼生は腕を伸ばしてサイドテーブルの抽斗から吸入器を取り出し、いちの口に添えた。いちは両手でそれを持って、ふぅふぅと息を吐いていた。
 遼生の腕の中にすっぽりと入りこむほど、いちは小さかった。呼吸のリズムを整えるように背中を撫でると、手のひらに浮いた骨の感触がした。

「大丈夫、大丈夫」

 何が?何に対して?
 自分で言っておきながら、遼生は心中で苦笑した。今も尚、いちにとって自分は安心できる居場所ではないというのに。

「は、ふ……けほ、っ」

 ゆっくりと、いちの呼吸が落ち着いてきた。額に浮かんでいる汗を拭い、貼りついている前髪を払った。

「ん、ん……」

 どれだけ長い時間そうしていただろう。
 くた、と遼生の腕の中でいちが身体を預けた。抱き込んで顔を覗き込むと、いちは気を失ったように眠っていた。

「…………」

 夜が、開けようとしていた。
 閉じていたカーテンの向こうがうっすらと明るくなり一、鳥の鳴き声が少しずつ届いてくる。
 腕の中でぐったりと眠るいちの頭を撫でて、遼生はもう少し寝かせてやろうとベッドに横たえようとした。

「!」

 くん、と裾が引かれて、動きを止めた。控えめに、けれどしっかりと、いちが遼生の服の裾を握っていた。
 それだけで、少しは許されているような気がした。
 自然と笑みが漏れて、起こさないようにいちを抱き締めなおしながら、遼生ももう一度眠りについた。

             *

 緑の中に映える野イチゴは、甘く熟してキラキラと太陽の光を浴びていた。ぷち、ぷち、とそれらを収穫して、傍らに置いている籠に詰めていく。
 青空が広がっている今日は、それほど気温も上がらず、涼しい風が頬を撫でていた。ようやく冬が終わり、夏の暑さが訪れるまでの、一時の優しい季節だった。
 きぃ、と背後の扉が開く音が聞こえて、起きたかな、と遼生は手を止めて立ち上がった。いちが少し眠たそうにしながら、遼生を見て小さく頭を下げた。

「おはよう、いち」
「お、はよ、ございます」
「おいで、今日はジャムを作ろうか」

 いちはおずおずと遼生のいる畑に近づいて、時折飛んでいる虫に驚きながら、隣にちょこんと座った。遼生の作業を見よう見まねで、野イチゴを摘んでは籠に詰めていってくれる。

「うん、これくらいにしよう。おいで」

 籠を持って、家を運ぶ森の方へ向かった。一歩離れて、いちも遼生の後ろをついてきた。
 森の中にぽつりと建つログハウスに、遼生といちは住んでいた。もともと陶芸を生業としている遼生の作業場で、喘息を持っているいちが過ごすにはうってつけの場所だった。
 森を少し抜けると、小さな川が流れている。そばに座って、野イチゴを水にさらして汚れを落とした。川はひんやりと冷たくて、指先から体温を奪っていった。
 いちも隣に座って野イチゴを手に取り、ぱしゃぱしゃと水にさらした。きらきらと雫が野イチゴの表面を滑って、美味しそうに輝いていた。

「一つ食べてごらん。美味しいよ」

 遼生が食べてみせると、いちもぱくりと口に含んだ。少しだけ口角が緩んで、美味しかったのかな、と遼生は推測する。

「少し休んでから行こうか」

 遼生は腰を下ろして、後ろに手をついて空を見上げた。木々が程よく太陽の光を隠して、木漏れ日が優しく降り注いでいた。隣でいちは膝を抱えて、じっと川の流れを見ていた。それを横目に見ながら、体調は良さそうだな、と遼生は安堵する。

 いちが遼生のもとにやってきたのは、二カ月程前のことだった。
 遠い親戚だったいちが、身寄りもなく色んな家を転々としていることを知った遼生は、すぐに引き取りたいと名乗りを上げた。まだ若すぎる、と反対する者も多かったけれど、自分自身も親がおらず、幼い頃からたくさんの人の助けを借りてここまでやってこれた恩を返したいと思うと同時に、初めて会ったいちが肩身が狭そうに俯いているのが、いたたまれなかった。遼生の住む家は空気が良くて、いちが身体を休めるには丁度良いとも思った。
 初めて遼生の家で発作を起こし、一人で耐えていたいちは、うるさくしてごめんなさいと、小さな声で謝った。きっと誰かにそう言われたのだろうと、遼生はすぐにわかった。
 気にしなくていいんだよ、と言いつつも、いちはまだ遼生に心を開かずに、昨晩のように一人でどうにかしようとする。

「気持ちいいね、いち」

 少しでも、いちの心が和らげば。そう思わずにはいられなかった。
 暖かさに遼生がうとうとしていると、とん、と左肩に重さを感じた。いちが、膝を抱えたまま眠りかけて、遼生に寄りかかっていた。
 思わず笑ってしまうと、いちがはっと目を覚まして、

「っ、ごめんなさい」

離れようとするので、遼生が肩を引き寄せた。

「一緒にお昼寝しようかぁ」

 とん、とん、と肩を叩くと、いちがくすぐったそうに身体を小さくした。

「……ぼく、ここが、好き」

 川の流れる音に掻き消えてしまうそうな声で、いちが呟いた。

「ここが、好き。遼生さんが、好き」

 ぼんやりと眠たそうな声と、控えめな告白に、遼生は小さく笑った。少しは、安心できる場所になれていたのだろうか。
 対していちは、はっとして顔を上げ、慌てたように、

「あっ……ちが、好きっていうのは、そういうのじゃ、」
「うん。でも、ありがとう」
「っ……」

 遼生が優しく笑うと、いちは顔を赤くして俯いた。
 可愛いな、と遼生はいちの頭を撫でた。痛んでいない髪が、指の隙間をすり抜けていく。
 いちがまた、控えめに遼生の肩に身体を寄せたから、

「ずっと、ここにいていいよ」
「……ずっと?」
「うん、ずっと。好きなだけ、いていいよ」

遼生が言うと、いちは小さく、頷いた。

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