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夏の匂いの人8

 あれから、時雨は逃げるように遠方のオファーを受け、屋敷から離れるようになった。これまで敬遠していた雑誌などの取材も受けるようになり、各地での教室や展覧会など精力的に活動した。花の注文はそれでストップしていたから國谷と会わざるを得ない状況になることはなかったし、それでも國谷は屋敷に来るかもしれないとなんとなく思ったから、時雨が屋敷を離れた。
 全く帰らなかったというわけではなかったけれど、ゆっくりと時間をとって自宅で休めるのはほぼ一ヶ月ぶりだった。
 玄関を開けると少し埃っぽい匂いがして、掃除をしなければと思うけれど、今は身体が重くて堪らない。肩から荷物を下ろすとどっと疲れが出て、へなへなと廊下に座って立てなくなった。
 草履を履いたまま、ゴロンと仰向けになった。屋敷の中は、しん、と静まり返っていて、蝉の声が聞こえなくなっていることに今更ながら気付く。
 そうだ、自分はずっと、この静かさの中にいたんだった、と懐かしい気持ちになった。誰かの来訪を待ったことも、誰かと一緒に食事をしたことも、縁側で涼みながら空を見て、他愛もない話をしたことも、もう随分昔のことのように思える。
 大丈夫だ、忘れられる。元に戻るだけだ、と時雨は自分に言い聞かせた。こうして忙しく働いていれば、時が流れて、頭の中からいなくなる。
 そうしたらいつか、この苦しさも無くなるだろうと、時雨は目を瞑った。

            *

 「……うお」

 店番をしながら雑誌を見ていた國谷の口から、変な声が漏れた。急に誌面に現れたのは時雨だった。まだ若く、和装を常用していて、かつ見た目が整っている時雨は、華道界に注目を集めるにはちょうど良い人材なのだろう。誌面の中の時雨は笑いさえしないものの、立っているだけで一輪の華を思い起こさせるほど凛としている。
 あまりこういう仕事は受けないと言っていたけれど、何かきっかけがあったのだろう。注文が途絶えていたのは出張していたからなのか、と國谷は自分を納得させようとするけれど、あの出来事の次の日からぱったり注文が途絶えたとなると、そのきっかけが明らかに自分にあったようにしか思えない。

「……くそ」

 雑誌を閉じて、頭を抱えた。自分が何かしたのか、嫌なことをしてしまったのか、考えても考えてもわからなかった。
 好意を「意味がない」と切り捨てられたことには腹が立った。でも、時雨はそれまで國谷の好意を受け取っていたし、拒絶することはなかった。
 自分が邪魔になったのか、とも思う。時雨は華道家として成功しているし、これから先も守るべきものがある。そこに自分がいることが、邪魔だったのかもしれないと國谷は思う。
 國谷がいくら好意を向けても、時雨が國谷に現を抜かすことは無く、だったらその好意は「意味がない」と言いたかったのか。
 けれど何度考えても、時雨が自分に好意が無いとは思えないのだった。一緒に食事をしたり、隣にいるときに小さく笑ってくれるその顔が、大多数の他人に向けられるそれだとは思えない。
 何を思って、時雨は國谷から離れようとしたのか。何度か屋敷を訪ねたけれど外出中で、会えないまま一ヶ月程が経過していた。
 このまま、もう終わりなのか。
 どうしたらいいんだろうと、國谷は目を瞑った。

            *

 久しぶりに近場の展覧会に出展することになり、時雨はいつもの定位置で正座して、構想を練っていた。
 疲れが溜まっているのか、思考がすぐに離散してしまい、なかなか考えがまとまらない。最後には正座を崩して、伸ばしていた背筋を丸めた。
 いつの間にか外が暗くなっていることに気づき、カーテンを締めなければと立ち上がり、

「……!」

 虫の鳴き声と、風が鳴らす木々の音に混じって、バイクの音が聞こえた。ほぼ無意識に、時雨は縁側に駆け寄っていた。
 音が近づくにつれて心臓が高鳴った。けれどバイクは止まることなく屋敷の前を通り過ぎ、遠くに行ってしまった。
 はっとして、茫然として、その場に座り込んだ。
 何かに期待していたとでも言うだろうか。自嘲して、ただ空を見上げると、満月がぽっかりと浮かんでいた。
 この屋敷にいると、色んなことを思い出す。ここに座っているだけで、色んな光景が目に浮かぶ。それが苦しくて、時雨は身体を縮込ませた。
 次の華の構想がまとまらないのも、理由はわかっていた。華を考えると思い出してしまうのだ。笑って、この華が好きだと言ってくれたあの声を、思い出してしまうのだ。

「…………」

 華を生けるのがこんなに苦しいと、思ったことはなかった。
 もう生けられないとも思った。
 いつか終わりがくる華道家としての人生が、もしこうして終わるのであれば、それは運命なのかもしれないとも思った。
 最後にするなら、きっと、あの花がいい。時雨は今までそれを使ったことがなかったけれど、自然とイメージが湧いた。
 心を込めて、生けよう。
 そうしていつかは枯れる華と一緒に、忘れてしまおう。
 そう思って、時雨は立ち上がった。

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