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陽が落ちて、6

「落ち着いた?」

 奈津の頭の中がクリアになった頃、自室のベッドに横たえられていたことに気付いた。傍らには航が座っていて、霞みがかった記憶を奈津はゆっくりと呼び起こした。

「……僕、」
「混乱してたみたいだから、ゆっくり休んで」

 はい、と航が手渡したのは、温かいココアが入ったマグカップだった。ゆっくりと上半身を起こして、奈津はそれを受け取る。

「あ、りがと」
「ん」

 こくりと一口呑み込むと、温かさと甘さが身体に染みわたった。ほっと落ち着く。

「体調は?気分、悪くない?」
「だい、じょぶ」
「良かった」

 航がふわりと笑い、奈津は、それが好きだとすぐに思う。身体に染みわたるココアと同じように、ほっとさせてくれる、優しい表情だった。
 取り乱していた中、初めて自分から航に触れたことに、奈津は気付いていた。
 どこにも行って欲しくないと、思ったのだ。どこかに行ってしまうのが悲しかった。この笑顔が目の前から消えて、また独りぼっちになってしまうことが悲しくて仕方が無かった。
 これまで生きてきた中で関わった人間の数が、一般的なものと比べて圧倒的に少ない奈津は、それが依存によるものなのか特別なものかもわからない。
 けれど確かなのは、「どこにも行かないで」という願いだけだった。

「奈津」
「……?」

 奈津の足元に腰掛けた航が、落ち着いた声で尋ねた。

「触れても、いい?」

 航の目線の先には、布団の上に置いた奈津の手があった。おず、と無意識に軽く拳を握ってしまうけれど、奈津は細い息を吐いて力を緩めた。

「……いい、よ」
「!」

 航は自分で聞いておきながら、ひどく驚いた顔をして奈津を見た。その顔がおかしくて、でも、優しいなと感じたから、奈津は無意識に口角の端を緩めた。
 航は一瞬固まって、けれど口を結んで奈津の左手に触れた。ココアで少し温まったけれど、すぐに冷たさを思い出す、小さな手だった。
 指先に触れて、握って、手の甲へ航の指が伸びる。自分のと違って大きく、温かくて、骨ばっていると、奈津は緊張しながら思う。優しい手が奈津の手を包んで、シャツの袖の中に指先が入った。

「やっ……」

 裾をゆっくり捲りながら、航の指は奈津の肌をなぞった。
 傷だらけの醜い腕が露わになり、奈津はびくりと腕を引こうとするけれど、航がそれを掴んで離さない。

「や、やだっ、離してっ……」
「嫌だ」
「っ……」

 強い言葉に身体が固まる。じわりと涙が浮かんだまま、奈津は航の行動を見つめることしかできなかった。
 航は奈津の夥しい数の傷跡を見て、指先で撫でた。ざらざらとした感触が指に伝わる。先ほど手当てをしたばかりの、ガーゼを当てた部分の他にも、古い傷から真新しいものまで重ねられていた。
 年輪のようだと思った。生きてきた証だとも思った。奈津が死ぬためではなく、生きるために刻んだものだと、航は思った。

「や、きたないっ……」

 震える小さな声で、奈津は怯えていた。

「汚くない」
「やだ……っ」
「奈津は、汚くなんかないよ」

 袖を下ろして、奈津の手を両手で包み込む。すっぽりと見えなくなるそれに、小さな手だなと航は思う。
 この小さな手で、たった一人で耐えて、生きてきた。

「ごめん。泣かないで」

 ぽろぽろと泣いてしまった奈津の頬に触れようと、手を伸ばした。びくっ、と奈津は身体を縮こませて怯えてしまったけれど、反射的に閉じた目をゆっくり開けて、航の手を待つ。
 少しだけ、許されたような気がした。
 そっと指先で涙を拭った。拭っても拭っても、奈津は泣き続けた。

「泣かないで」
「止、ま、ない……」
「うん、ごめんね」

 初めて保健室で会った時から、奈津は怯えて泣いていた。その頻度は少なくなってきたけれど、表情は相変わらず固い。
 少しだけ、一瞬だけだけど、笑った顔が忘れられなかった。
 それをもう一度だけ見たいと思うのは、結局は自己満足なのかと航は自嘲する。
 それでも、それが奈津の心からの笑顔であれば、笑わせてあげたいと思うのも、また事実だった。


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