黒猫の散歩道5
撫で続けていた綾の背中が熱いことに、涼は気付いていた。今朝は一旦微熱程度に下がっていたのに、長くこんなところにいたからぶり返したのだろう。その証拠に涙が徐々に止まってきた綾は、今は熱い息をふうふうと吐きながら涼にもたれかかっていた。
くたりと身体の力が抜けている綾を抱えて、寝室に向かった。ベッドの上にそっと下ろすと、とろりと目が伏せられていた綾の目が大きく見開かれて、
「ひっ……」
咄嗟に身体を離された。
「何もしないから」
何もってなんだ、と心中で呟きつつ、綾を安心させるようにベッドから離れた。綾はベッドの上で座って胸元にシーツを引き上げて牽制しながらも、熱で身体がふらついている。
「っ、おい」
ふら、と綾の身体が傾いだ。ぽすんと気の抜けた音とともにベッドの上に上半身が倒れたから、咄嗟に肩を掴んで身体を起こすけれど、もう自分で動く気力も残っていないようだった。目を閉じて熱い息をし続ける綾を、次は静かに寝かせて布団をかけた。
こんな状況になってでも、人を頼ろうとしない。出会ったときからそうだった、と涼は思う。怪我をしていても、熱があっても、他人に心を開かなかった。
けれど、さっきの行動は嘘でも気まぐれでもないと、涼は信じたかった。触れられることが嫌な綾が、自ら涼に触れて、そうしていたいと望んだ。
「……なんなんだ、お前は」
それは優越感に近い、けれど確かに違う感情だった。
関わることは面倒だと思っていたのに、どうにかしてやりたいと思う気持ちが芽生えたのも、嘘ではなかった。
「……ん……」
綾が少しだけ目を開けて、ベッドに腰掛けて顔を覗いている涼と視線を交わした。また怯えさせてしまうと涼は思ったけれど、予想に反して綾は静かに口を開いた。
「……都築、は……俺に、何もしないね」
不思議そうに呟く。
「……人間みたいに、あつかうんだね」
まるで、人間みたいに、扱われたことがないような。
無意識に綾の頬を指先で撫でると、その冷たさが心地いいのか、猫のように目を細める。
警戒したり、すり寄ってきたり、その真意はなんなのか。
「お前、今まで何があった」
涼の言葉に、ぴく、と綾の目に警戒の色が見えたけれど、先ほどのような怯えはなかった。
何かを覚悟したようにそっと目を閉じて、ぽつりぽつりと話し出した。それはあまりに痛々しいのに、言葉は淡々と冷たくて、他人事のようにしか聞こえなかった。
「これが、煙草」
くい、とシャツの首元を引っ張って見せてきた鎖骨には、火傷の痕が残っていた。
「これは……鋏かなぁ」
手の甲にも切り傷があった。
「これは施設の時で、こっちが学校」
「…………」
「おれが嫌がると、殴られんの。それはまだマシなほうで、誰もいないところに連れていかれて、」
「もういい」
涼の強い制止に、ぼんやりとした頭で記憶を辿っていた綾はびくりと言葉を止めた。
「……ごめ……おれ、汚い、ね」
「違う、悪い、そういう意味じゃない」
軽蔑の言葉が飛んでくるかと思っていたのに、涼の顔が怒りと悲しみと悔しさが混じったように歪んでいたから、綾ははっと目を見開いた。
「そんな話させて、ごめん」
どうして辛そうな顔をしているんだろうと、綾は心底不思議に思う。
「都築は、なにもしないって思ったから、話した」
「……うん」
「なんで、都築が、そんな顔するの……?」
「…………」
「なんで、そんなに、優しくするの」
涼の眉間の皺がぎゅっと濃くなった。綾があまりにも不思議そうな顔をするから、見えないところで固く拳を握り締めた。
今更、綾の過去を無かったことにすることはできないし、それらに制裁を加える度量もない。けれど人並みに受け取れる、愛情や優しさを綾は知らなすぎるから、涼は行き場のない怒りを覚える。
「……なんでだろうな」
面倒だと思っていたのに、関わりたいと思ったのは、知りたいと思ったのは、何故だろう。
たった一つ、縋ってくれた手を愛しいと思ったのは何故だろう。
答えを出せない涼に、綾は少しだけ笑った。
「気まぐれ?」
「……かもな」
「涼になら、ひどいこと、されてもいいよ」
「するか」
あまりにも綺麗に綾が笑うから、涼はそっと、綾の薄い唇に自分のそれを重ねた。
「……これも、気まぐれ?」
「……そうだな」
綾はさらに目を細めて笑って、すぅっと気が抜けたように眠った。
涼が隣にいても眠りについてしまったのは、熱のせいで大量が限界だったからかもしれない。明日はまた、警戒されるかもしれない。
ただ、今だけは、許されたのだと信じたかった。
少しだけでも内側に入れたのだと、安心したかった。
「……おやすみ」
ふぅ、と綾の吐いた息は熱かったけれど、どうか次は怖い夢を見ずに済むようにと、願った。
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