夏の匂いの人9
こういう品評会に訪れる者の平均年齢は高く、圧倒的に女性が多い。フォーマルに見えるよう、白いシャツと黒のスラックスというシンプルな服装で訪れた國谷は、けれど若い男という会場では異質な存在であるということを周囲の目線で感じ、気後れしながら足を踏み入れた。
最近は遠方で仕事をしていた時雨の華が、近場の展覧会に出展されると聞いた。そこで会えるとは思っていなかったけれど、あわよくばという気持ちがあったのも嘘ではない。純粋に時雨の華が好きだったから、見たいという思いもあった。
花の匂いが充満していた。細長い机には白い布がかけられており、それぞれの花が生けられている。腰を曲げて、花とタイトルを見ては評価していく来場者の顔は明るい。美しいものを愛でる時、人は幸せだと國谷は思う。
順序に従って進むと、だんだんと人の留まりが増えてきた。足を止める時間が自ずと長くなっているからだ。ひと際、人だかりが出来ている花は、國谷が見たかったそれだった。
「いつも素晴らしいねぇ、沢城先生の華は」
群衆の中で、誰かがそう言った。
頭一つ分は背の高い國谷は、人だかりの中でもそれを見ることができた。
赤く丸まった蕾のような花が上に向かって伸び、それらを彩るように白い花が低く生けられている。
「珍しいね、こういう花を使われるのは」
花を商売とする國谷には、わかっていた。
「紅葵だ」
國谷と同じ名前の、花だった。
白い花はトルコキキョウ。
ぎゅっと拳を握った。
「……そういえば、あの噂は本当なのかな」
「噂?」
「沢城先生、もう華は生けないって」
どくん、と心臓が高鳴った。
くるりと華に背を向けて、國谷は反射的に出口に向かっていた。追い討ちをかけるように、背中から声が届く。
「もう、この華で仕舞いにするって」
気づいたら、走っていた。何で今日に限ってバイクで来なかったのか、バスが少ない休日なのか、恨みながら國谷は走っていた。
花束を作ることも多い國谷には、花言葉を知ることすら容易かった。
紅葵の花言葉は「新しい恋」。
トルコキキョウは「あなたを思う」。
思い上がりでも良かった。でもあえて、國谷と同じ名前の花を使う理由もわからなかった。
それがもし、時雨が伝えたかった言葉なのだとしたら、國谷は今、足を止めることはできなかった。
*
突然、抱き締められた。
走ってきたのか國谷は肩で息をしていて、けれど離れることのないよう、強い力で時雨を抱き締めていた。縁側に立っていた時雨はそのまま固まってしまい、ただ國谷の速い鼓動が身体に伝うのを感じていた。
視線の先で、縁側に脱ぎ捨てられた國谷のスニーカーがひっくり返っていた。
「なんなんですか、あんた」
呼吸の合間に、國谷が低い声でいった。
「拒絶してきたと思ったら、俺のこと待ってる」
ぽろ、と時雨の目から涙がこぼれた。
離れるべきだと思っていた。國谷は自分とは別の人の隣にいるのが、正しいのだと。
ずっとこの腕の中にいたかった。誰にも渡したくなかった。
だからこそ、時雨は精一杯の力で、國谷の身体を離した。
「僕がいたら、國谷は幸せになれない」
「……は……?」
國谷の顔を直視できず、俯いたまま続けた。
「僕は、男だから……お前はちゃんと、結婚して、子供を作って、温かい家庭を作らないと、駄目だ」
「……なんですか、それ」
「僕と一緒にいても意味が無い」
「っ、なんで俺の未来を、あんたに決めつけられなきゃなんないんだよ!?」
國谷が声を荒げて、びくっ、時雨の肩が跳ねた。掴まれた肩が痛くて身じろぐと、國谷がはっとしたように力を緩めた。
「……ごめん。ごめん、國谷」
國谷を縛っているのは、自分なのだとわかっていた。自分と出会わなければ、國谷は当たり前のように幸せを手に入れるはずだったのだ。
「っ……」
もう一人には慣れているはずなのに、どうしてなのか時雨にはわからない。
どうして、國谷を拒絶するのがこんなに苦しいのか、わからなくて涙が溢れた。
どん、と自分の胸を拳で叩いた。何度も、何度も叩いた。
「時雨さん……?」
「なんっ、なんでっ……」
「時雨さん、やめてください」
國谷が時雨の手首を掴んで叩くのを止めさせるけれど、時雨はなお、力を込め続けた。
「なんで痛いの、ずっと、苦しいの」
何かが詰まっているように、ぎゅっと掴まれているように、胸にずっと苦しさが残る。
叩いても叩いても、それは消えようとしなかった。
國谷を拒絶するのが正解だとわかっているのに、心の奥底で誰かがそれを邪魔する。
「消えろ、消えろ消えろ……っ」
思い出も、胸の痛みも、この気持ちも全て、消えてしまえば良いのに。
掻き毟るように両手で頭を掴んで、懇願するように呟いた。
「時雨さん」
ふわ、と包むように國谷に抱き締められた。
「息、浅くなってます。大丈夫、ゆっくり、落ち着いて」
「っ……」
「そう、深呼吸してください。大丈夫」
うまく空気が吸えなくなっていることに気付いて、時雨は苦しさの中、必死に深呼吸をした。温かさと、國谷の声の柔らかさに、張り詰めていた何かがぷつんと切れた。力が抜けるように國谷に身体を預けてしまい、そのままずるずると二人して座り込んだ。
國谷は時雨を抱き締めたまま、背中をゆっくり撫で続けた。
「俺、やっぱり、時雨さんのことが好きです」
「だから、っ」
「一般的な幸せとか、家族とか、俺、どうでもいいんです。時雨さんがいてくれれば、それでいい」
身体を少しだけ離して、時雨を正面から見た國谷は、いつものようにふわりと笑った。
「時雨さんが、好きです」
「っ……」
「わがままで、面倒くさくて、不器用で。でも誰よりも優しくて、俺のこと好きだって言ってくれる時雨さんが、好きです。ずっと、そばにいたいです。いさせて欲しいです」
誠実な言葉に、心臓が高鳴った。
「一般的な幸せなんて、どうでもいいです。時雨さんがいれば、俺は幸せです」
離れようと思っていた。忘れようと思っていた。最後にあの華を生けて、もう辞めようと思っていた。花を見ると、どうしても思い出してしまうから。
「……っ、人が、どんな気持ちで」
ぼろぼろと溢れる涙を、國谷が何度も拭って、うん、と頷いた。
「いい加減、観念してください」
慰めるように、國谷が時雨の瞼にキスをした。
それは呪縛のようで、声に出そうとすると喉で詰まって上手くできなかった。けれど、國谷はそれで良いのだと言ってくれた。隣にいることを選んでくれたのだから。
もうその手を、取っても許されるだろうか。
「……好き、だ」
風の音に掻き消えそうな小さな声で、時雨が呟いた。
「はい」
大型犬を彷彿とさせる優しい笑みで、國谷はそれを受け止めた。
早くなった日暮れが、夜の風を運んだ。微かに冬の湿った匂いがして、季節が移ろうとしていることを知る。
秋が終わり、冬が来て、春が訪れ、夏がやってくる。
とびきり綺麗な花を生けようと、時雨は思う。季節の美しさを忘れないように、その場に留めておくように、忘れないように。
何度も巡る季節の中で、きっとこの笑顔は変わらないのだろうと、時雨は眩しいものを見るように目を細めて、微笑んだ。
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