眠りの森3
学校にほとんど通っていない那月にとって、制服を着る行為はある種の儀式だった。制服以外に着るものがないのも理由の一つだったが、なんとなく、朝起きたら制服を着るというのが日常化されていた。
那月は骨董店の二階に住んでいる。もとは両親が喫茶と古物商を営んでいたが、それはほんの数年前までのことだった。今はもう、両親はいない。天涯孤独になった那月の後見人となり、古物商を継いだのは、那月の父親の古い友人だった。
思えばその頃から、学校へ行かなくなった。
そして、那月は痛みを無くした。
カウンターの奥にある階段を降り、現マスターである三条の後ろをするりと抜けた。
「那月くん、おはよう」
三条は柔らかい声で言い、那月は小さく頭を下げて、いつものソファへ向かった。那月が座って目を瞑っていると、三条が温かいココアとサンドウィッチを持ってきた。少し遅い朝食になる。
那月が小さく目を開けてテーブルにマグカップを置いている三条を見ていると、ふと三条が気付いて微笑んだ。那月自身が幼い頃から知っている、父のように、年の離れた兄のように接してきた三条の優しい顔は、皺が増えて年月を感じさせた。
優しく頭を撫で、三条は何も言わずにカウンターに戻って行った。
いつも十一時頃に、湊は出勤してくる。喫茶が賑わう時間帯は二人体制で店を回し、骨董品の査定があるとき以外は、夕方以降は湊のみで対応している。
からんころん、といつもと同じ時間に店のベルが鳴り、那月はそれで時間を知る。夜にほとんど眠りにつけない那月には、まだ眠気が残る時間帯だった。目を瞑っていると、湊が足を止めてこちらの様子を見、奥に着替えに行く気配がした
「湊くん、申し訳ないですが、僕今日少し早く出ますね」
「わかりました」
「那月くんのこと、頼みます」
二人の会話が夢うつつに聞こえた。少しは眠れたようで、那月はソファからずり落ちていた身体を起こして座りなおす。テーブルの上のマグカップとサンドウィッチが入っていたお皿は、無くなっていた。
三条が腰のサロンエプロンを外しながら、
「那月くん、また明日」
そう言って、朝と同じように優しく頭を撫でた。那月はまた、小さく頷いた。
店内はレコードからゆったりとした音楽が流れ、ときどき喫茶の客が来るくらいで、喧噪とはかけ離れていた。
住みついた黒猫が膝に乗ったのがわかって、那月はびくりと目を覚ました。なぁん、と小さく鳴いた猫は、そのまま丸くなってしまう。
ぽぉーん……とピアノの音が鳴った。音は、骨董品の一つのピアノから発せられていた。湊が立ったまま、長い指で白い鍵盤を鳴らしていた。
那月が見ているのも気付いていない様子で、湊はいくつか音を鳴らした。
いつも不愛想に、表情を崩さない湊は、曲にもならないそれらの音を愛しそうに目を細めた。鍵盤の蓋を閉じ、優しく、慈しむように撫でる。
見たことが無い、姿だった。
「……ぃ……」
痛い、と那月は思った。
それは、湊にとって大切なものなのだとわかった。誰かが作って、誰かが弾いて、売られて、また誰かが迎えに来てくれるのも待っているピアノは、湊の指に慣れすぎていた。
どうして、そこにいるんだろう。
そんなに大事なのに、どうして。
「い、たい」
「……おい」
僕は、そんなに大事にされたことがないのに。
誰も迎えに来ないまま、ガラクタになって朽ちていく。
「大丈夫か」
痛みを感じない那月に、それらは久しぶりの感覚だった。傷を重ねすぎた腕がずきずきと痛みだす。熱く燃えるようなそれに紛れるように、胸が痛んだ。
痛みで身体が傾いだ那月を、異変に気付いた湊が咄嗟に抱き留めた。回した背中はじっとりと汗をかいていて、痛みに耐える様子に湊は心中で焦る。
湊の肩越しに、ピアノが見えた。那月は怖くなって目を瞑る。責められているような気がした。
この優しさは、僕のものでは、ない。
落ち着かせるように大きな手でぎこちなく撫でてくれる。その手は、あのピアノを弾くために、あるのではなかったか。
ずきん、ずきん、と胸が痛んだ。
「どこが痛い?」
「…………」
「何か薬を」
行ってしまおうとする湊の袖を、那月は咄嗟に掴んだ。
「ここ、に」
今だけは、傍にいて欲しいと思った。
湊は困ったように立ち尽くして、また那月を抱き締めた。痛みのそれか、ぽろぽろと流れる涙を拭い、頬にキスを落とす。
今日も那月は、死んでいるように冷たかった。
「ピアノ、の」
「ピアノ?」
「おと、が」
「……あぁ」
要領は得なかったけれど、先ほど弾いていたピアノのことだと湊はわかった。
「あれ、俺のピアノなんだ」
「…………」
「正確には、俺の祖母のだけど」
時がたち、調律は乱れ、すっかり古くなってしまった。
「大事だったけど、ピアノ、弾けなくなって。また、誰かに弾いてもらえるのを、待ってる」
あわよくばその瞬間を、湊は見届けたいと思っている。
「大事な、もの」
熱に浮かされたように、那月は呟いた。こんなに話すのは珍しいなと、湊は一言一句逃さぬように耳を傾けた。
「……いいなぁ」
掻き消えそうな小さな声で、那月は呟いた。そうして、すぅっと眠りについた。
あまりに悲しそうな、けれど羨むような声で、湊の胸が痛んだ。
誰かに必要とされるのを、この子はずっと、待っている。
静かに時だけを刻むピアノのように、ガラクタになるまいと、待っている。
「……お前は、とっくに、」
なぁん、といつの間にか那月の膝から降りていた黒猫が鳴き、湊ははっと言葉を止めた。足元にすり寄ってくるから、優しく背中を撫でてやる。
大事なものは一瞬のうちに無くなるのだと、湊は知っていた。
眠って微かに開いている那月の唇に、そっとキスをした。
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