透明人間4
「遅くなってごめんね」
そういって蓮はベッドに真新しいシャツを置いた。これまで瑠依の分の服が無く、サイズが大きすぎる蓮の物を着せられていた瑠依は、けれどそれが自分自身のための服だとは理解していなかった。
「瑠依の服用意したから、着替えようね」
瑠依の風邪が治り、ようやく着させてあげられると、蓮は心の中で喜んでいた。何も持っていない瑠依に『瑠依だけのもの』を与えられることが嬉しかった。
蓮がベッドに乗り上げて、瑠依のシャツを脱がせた。瑠依はいつものように大人しくされるがままで、着ていたシャツは脇にくしゃくしゃに置かれ、新品のシャツに袖を通された。
「うん、ぴったりだ」
細い瑠依にはまだ布が余っていたけれど、もう少し肉付きが良くなればちょうどよい。蓮は着ていたシャツは洗濯しようと、くるんと丸めて立ち上がった。
「っ……」
「え?」
一瞬、背を向けた瑠依が息を漏らした。普段から言葉を発することが少ない瑠依の機微に、蓮はすぐ反応できるようになっていた。
咄嗟に振り向くけれど、瑠依は俯いて何も言わず、気のせいだったかと蓮は部屋を後にした。
「…………」
瑠依は一人になった部屋で、手を噛んだ。
それは戒めだった。思わず連に『伝えよう』としてしまった自分への戒めだった。言葉を漏らさないように、親指の付け根を噛んだ。
希望や願いを言ったことは無かった。瑠依にはあるのは、いらないといる、だけだった。けれどそれは、聞かれてないのに言うことはできない。そういう風に、瑠依は過ごしてきた。
何を言おうとした?出過ぎた真似ではないか。優しさに気が緩んでいるのだと、瑠依は痛みで自分に刻んだ。
*
瑠依の手に新しい噛み痕があることは、蓮もすぐに気付いた。けれど瑠依の自傷行為は悲しいことに珍しいことではなかったから、まだ不安定なところがあるのだなと、心に留めて置く程度だった。
「瑠依、入るね」
そういって部屋に入って来た蓮は、畳まれた服を抱えていた。クローゼットが瑠依の部屋にあり、洗濯した服を収納するのだろうとわかった。その中には瑠依が今朝まで着ていた服もあり、瑠依もそれに気づいていた。
蓮がクローゼットを開けようとしたとき、チャイムが鳴った。
「あ、荷物頼んでたんだった……」
ぽつりと独り言を残した蓮は、服をサイドボードに置いてパタパタと走り去った。瑠依は、残された服をじっと見つめる。
きし、とベッドが軋んで少し怯んだけれど、瑠依は構わずサイドボードに手を伸ばした。畳まれた服の上から三つ目に、見知ったシャツがあった。引っ張ると服の山が崩れて床に落ち、けれど瑠依にはどうすることもできず、そのままにしてシャツを抱き込んだ。
ベッドの上に胎児のように丸くなって、シャツを大事に握りしめた。ふわ、と香るのは、蓮の匂いだった。
新しいシャツは冷たくて、匂いがしなかった。だから瑠依は『いらない』と思った。
「瑠依……?」
蓮が部屋に戻ってくると、サイドボードに積んでいた服が崩れ落ちていた。バランスが悪かったかな、と近づくと、瑠依がシャツを一つ掴んで、抱きかかえているのが見えた。
これまで瑠依の服として着せていた、蓮のシャツだった。
「瑠依、どうしたの」
瑠依は答えなかった。何か言いたそうに少しだけ口を開いて、ゆっくりと自分の左手を噛む。
その行為は、不安などからくる自傷よりも、まるで口を塞いでいるように見えて、蓮の心が痛んだ。
「……言っていいんだよ」
自分の意思など汲まれてこなかった瑠依だから、湧き上がる思いとの板挟みの辛さは、蓮にも痛い程よくわかった。
でもここは、あの場所ではないのだから。
「そのシャツが、良かった?」
答えやすいように質問を変えると、瑠依は手を噛んだままではあったけれど、応えるように身体をさらに丸めてシャツを包み込んだ。
サイズがあっていないのにどうして、と蓮の思いが至らないままでいると、
「つめたい」
聞き洩らしてしまいそうなほど小さな声が、空気を震わせた。
「何が、冷たい?」
蓮はベッドに座って、背を向ける瑠依の頭を撫でた。
言葉をあまり知らない瑠依の、気持ちを汲み取るのは難しかった。何が冷たいのか。寒い?寒気がする?まだ風邪気味だったか?と逡巡していると、
「あった、かい」
ぎゅっと、大事そうに蓮のシャツを掴む。
「におい」
すう、とシャツの匂いを嗅ぐように息を吸ったから、蓮は泣き出しそうになる。
「うん、あったかい匂いが、良かったね」
それは、無意識でも瑠依の歩み寄りだとわかった。
蓮の匂いが良いのだと、言ってくれた。
言ってしまったことへの罪悪感からか、瑠依はまた口を閉ざすように手を噛んだ。かたかたと微かに身体が震えていて、蓮は瑠依の身体を起こして抱き締めた。
「ありがとう、瑠依」
「…………?」
言葉の意味がわからず、瑠依は小さく首を傾げた。
「あったかいのが、良いね」
蓮の腕の中で、瑠依は深く息を吸った。いつもの優しい匂いに、ほう、と無意識に身体の力が抜ける。蓮にはそれがわかって、瑠依への愛しさに、そっと目を閉じる。
どうかこれからは、優しさと愛だけ受け取って欲しいと、願わずにはいられなかった。
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