黒猫の散歩道4
「どこ、行くの」
涼が身支度を済ませ、玄関に向かっているときだった。寝室から顔だけ出した綾が、小さな声で問いかけた。
「え、仕事」
「働いてたんだ」
「俺を何だと思ってる」
ひょこひょこと足を引きずって綾が出てきたけれど、警戒心は未だに解かれていない様子だった。
「夜には帰ってくるけど。……ま、適当にしとけば」
出て行きたければ出て行けばいいし、さして盗られる物もない。なんてことを言うと朝倉に「危機管理が出来てない」と怒られそうだなぁと思いつつ、涼は他にどうしていいかわからず、靴を履いた。
冷蔵庫の物とか食っていいから、と言い残して涼が外出し、しんと静まり返った部屋には綾だけが残された。
変なやつだ、と綾は思う。涼は怒りもしないし、嫌そうな顔もしない。いたければいればいい、好きにしたいい、とゆるやかな距離感のままだった。
お言葉に甘えて冷蔵庫にあった物を適当に頂戴し、器用に歩いて寝室に戻った。外は綺麗に晴れていて、閉じた窓を網戸に変える。ふわ、と涼しい風が舞い込んで、白いカーテンが綾の頬を撫でた。
ひどく、優しい時間だと思った。こんなに穏やかな世界があったのかと、驚くくらいのそれに、綾は戸惑った。
ベッドを背もたれにフローリングに座り込んだ。お腹が満たされたからか、瞼が重い。風が心地よくて、日の光が綾の眠気を誘った。
*
綾には親がいなかった。物心がついた頃には施設に居て、持っていたのは「桜木綾」という名前だけだった。
施設での生活はさほど不自由なものではなかったし、それなりに楽しく生きていた。けれどそれは中学を卒業するまでの話で、綾が高校に入る頃から変化が訪れた。
もともと小柄で中性的な顔立ちの綾は、声をかけられることも多かったけれど、高校生の頃から自分に向けられる目が変わったと感じた。好意と羨望の中に、欲望が混じった。
高校でも、それまで幸せに暮らしていた施設でも、綾はそういう目で見られるようになった。初めては同じ施設に住んでいた複数人で、兄弟も同然だと思っていたから、綾の心が閉ざされるのに時間はかからなかった。
逃げ出すことはできなかった。綾の居場所はそこしかなかったし、取り上げられるようで誰にも言うことができなかった。
綾が十八になってようやく施設を出られるようになり、住み込みで働いていた先で、眠れない夜を過ごした。痛みと、悲しみと、また居場所を奪われる恐怖と、絶望の夜だった。
どこに行っても、どこまで逃げても、生きている限りは変わらないのだと綾は思った。ただ茫然とその事実だけを噛み締め、怪我をしながらも必死に逃げた夜の街の片隅で、このまま死んでしまおうと思った。
そんなときに、涼に出会った。
今まで出会ってきた人間とは違うと思った。まだ完全に信頼しているわけではなかったけれど、留守の家を任すなんてどうにかしてる。
どこか抜けてるくせに、一つ一つの所作が優しくて、気遣ってくれているとわかって、嬉しかった。
平穏に暮らしていた頃と似ている空気を感じるとともに、またいつか終わりがくるのだろうという恐怖が入り混じった。
「っ……」
はっと綾は目を覚ました。背中にはじっとりと汗をかいていて、膝を抱えるようにして座りながら眠っていた身体は、関節が少し軋んだ。
足を引きずってリビングに出ると、しんと静まり返っていた。当たり前だけれど、綾の心がずきりと痛んだ。
玄関から出て行く背中を思い出した。涼の家なのだから帰ってくるとわかっているけれど、帰ってこないかもしれない。一生このまま一人なのかもしれないと、夢と現実が混ざった頭で考える。
悪い人ではないと、信じたい自分がいた。だからこそ、もう一度会いたかった。
早く帰ってきて、と想って綾は泣いた。玄関まで歩き、蹲る。
何を泣いているんだ、と馬鹿馬鹿しく思う気持ちと、寂しさが入り混じって、さらに混乱して涙は止まらなかった。
*
「……わ、びびった」
仕事を終え、近くのスーパーで食料を調達して帰宅した涼は、ドアを開けてすぐに蹲る綾の姿に一瞬固まった。膝を抱えて、壁に背中を預けている綾は、顔を伏せていてその表情を伺い知ることはできなかった。
「寝てんの?」
警戒させないように指で突くと、腕の中に埋めていた顔が突然あがった。
「、わっ」
一瞬だけ見えたその目には、涙が浮かんでいた。視界にとらえた瞬間に首に腕を回して引き寄せられ、中腰だった涼は雪崩れ込むように綾の両側に手をついた。片手にもっていた袋が、がさりと落ちた。
「……どうした」
綾から触れられるのは初めてで、涼は内心動揺していた。綾が小さく震えているのがわかった。
「怖い、夢、見た」
「……ガキか」
未だに腕を離さない綾に、触るからな、と一言置いて横抱きにした。リビングのソファに下ろしてやろうとするが、腕は離れようとしなかった。無理矢理離すのも気が引けて、涼は自らソファに座って、膝の上に綾を座らせた。
「そんな怖かったの」
怯えている様子がいたたまれなくて、背中を撫でようとそっと触れると、びくっと身体が跳ねた。
「あ、ごめん」
駄目だったか、と手を離すと、相反するように腕の力が強くなった。
「ちが、違う、くて」
「ん?」
「もうすこし、このまま」
涼が再びゆっくりと背中に触れると、綾は息を吐いて力を抜いた。細いなぁと思いながら、背中を撫で、未だに寝ぐせがついている柔らかい髪を指で梳いた。
「ごめ、なさい……」
震えた声で離れようとする綾に、涼は仕方ないなぁと眉を下げる。
「好きなだけいいけど」
「え……」
「まだ、落ち着いてないだろ」
今後は涼が綾を抱き込むと、綾はまた泣き出したようで、身体を震えさせながら身を預けた。
声を上げて、思い切り泣けばいいのにと、涼は思う。綾はまるで誰にも見つからないように、隠れるように、噛み締めて静かに泣いていた。
好きなだけ泣けばいい、と背中に回ってきた小さな手の必死さに、思いを馳せた。
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