summer snow "創作大賞作品"

あらすじ
32歳のジャズシンガーであるシングルマザーは、ずっと息子に嘘をついていた。
でも、その嘘はつくべきではなかったと、息子が10歳の誕生日に気付いた。 


32歳夏。
今日、10歳になる息子を私はここまで育ててきた。ただ普通のシングルマザーと違うのは、夜はジャズシンガーとしても働いている。

今日も仕事が終わり、お店へと急ぐ。移動の合間に毎日息子に電話をするのだけれど、あまり出てくれなくなった。

小さな頃は私の両親とよく一緒に歌を聞きに来てくれたりしたのだけれど、思春期に入りかけの今、あまりお話してくれなくなった。

今日はプロのジャズピアニストがお店に来る日。
鏡張りの壁も今日はいつもよりピカピカで、業者にまで頼んだらしい。
オーナーとバイト君は、もう掃除のする所はないのに、また雑巾を絞って、隅から隅まで見渡していた。

その今夜来日するジャズピアニストは日本人で、今アメリカで注目を集めている。ニューオーリンズという町で彼を知らない人はいない。きっと誰だったかの真似で、ブランドのジャージのセットアップを着て、海外から来るというのに、お財布と携帯だけポケットに入れてやってくるのだろう。

「あいちゃん、一緒にステージ立つの緊張する??」とオーナーが聞いてきたので
「なんとも言えないです。」と笑顔で答えた。
「だよね。」オーナーも微笑みながらため息をついた。

私は、高校を卒業したら本当は音楽の道に進みたかった。けれど、自信の無さから諦め、家から電車で二駅の普通の大学に行った。その大学の近くにあったのがここのジャズバーで、音楽の道に未練タラタラだった私は、ここを見つけて、すぐに働かせてもらった。

大学1年生の夏のある日、私のバイトが休みで、ただお店に遊びに来た。その日もプロのジャズバンドが来日した日だった。

カウンターの前にある、ステージからいちばん遠い2人がけのソファ席に、他のお客様の邪魔にならないように座っていたら、もう始まりそうだからか、急いで来た様子の男性が、息を切らしながらチラホラと席を探していた。そして、空いていた私の隣に座った。

隣に座った瞬間。すらっと長い脚がぶつかったその瞬間。あの瞬間から私はきっと恋に落ちていたんだと思う。ちゃんと顔を見てもいないのに、カラダが熱くなって、溶けていったのを今でも覚えている。

その隣に座った男性が今日、来日する。
プロのジャズピアニストであり、
私の息子のお父さん。その彼が今日、来日する。

18歳だった私は、お店でジャズを毎日聞いて、やっと覚えた曲もあるというのに、こちらの隣に座った男性は、ほとんどの曲を膝に置いた手で奏でていて、ピアノソロの時は身を乗り出し、鍵盤の方をじっと見ていた。

ジャズは大人の曲だと思っていたので、同じくらいの歳の男性がこんなに知っているのかと、憧れの気持ちと少しだけ悔しい気持ちにもなった。

「この曲のさ、ここ!ここがさ!たまらなくない??」と声をかけられた。ずっと前から友達かのように声をかけられた。という私も前から友達かのように「わかる!ここ私も好きだよ!」と自然に答えてしまっていた。
顔も見ずに、ステージの方を見ながら、勝手に自然に会話している自分達に気づかないまま、曲に夢中になって、プロの奏でるジャズを楽しんでいた。

ライブの一部が終わって、会場は拍手喝采。私は思わず立って拍手をした。隣の男性も立ってしまっていた。その時初めて顔を合わせた。そして、知らない人同士、知らないうちに会話していたことに気づき、2人は同時にハッとした。

けれど、今更だったので2人は会話を続けた。
2曲目のピアノのソロが聞いたことの無いような新しい感じだったとか、ボーカルの女性の見た目はかっこいいのに、歌が変わると急に可愛かったとか、溢れ出るステージへの興奮を2人で語り合った。

そうしているうちに、セッションを行いますとオーナーが司会で話した。
いつもセッションは、お客様が出たい旨をオーナーに伝え、ランダムにステージに上げる人を決めるのだけれど、
「ピアノは、、、」とオーナーが話し終わる前に、元気よく
「はい!」と彼が手を挙げた。
小学生みたいで可愛いと思った。
彼は遅れてきた為にエントリーしていなかったので、チャンスが今しかなかったのだろう。
オーナーは「いいねぇ!」と言って、会場が笑いに包まれた。

「歌は、、、」とオーナーが言うと、彼は私が歌を歌うのが好きなことを知らないのに、
「この子がやります!」と答えた。
オーナーも私が歌っているところなんて、見たことないのに
「おー!うちのバイトちゃん頑張ってみますか。」と言って、乗り気になってしまった。

音楽の道に未練だらけだった私は、本当は嬉しくって仕方がなかった。

オーナーが
「とりあえず2人でやってみる?」と言ったら、男性がすかさず、また、「はい!」と言った。

デュオで大丈夫かな。と私は人数が少ない事に、より一層緊張した。

緊張で手と足が一緒に出てしまって、みんなに笑われてしまった。でもそのおかげで、場も和み、穏やかな空気でステージに立つことが出来た。すると彼が、
「君はsummer snowが声に合いそう」と言って、早速イントロを弾き始めた。この曲を私が好きな事を彼は知っているのだろうか?と思う暇もなく始まってしまった。

彼のピアノはイントロで胸が熱くなった。
私は、思いっきり息を吸って、カラダ全てを使って、歌を歌った。

曲を歌い終わると、一部が終わった時と同じくらいの拍手をもらえた。
プロのシンガーの方が、拍手をしながら近づいてきてくれて、感動したとハグをしてくれた。
さっきのピアノの彼も、ピアニストの方からハグをされていて、お店全部がスタンディングオペレーションの状態。
オーナーもびっくりした顔をして、お店全体が興奮と感動に包まれているような気がした。

お店のステージが終わり、バー営業になってきた頃、やっと自己紹介が始まった。
彼は、音楽大学に通っていて、3年生だそう。ジャズピアニストを目指していて、今日は初めてこの店に来たという。

彼は私に、音楽の道を目指していないのに、大学1年生からここでバイトをして、さっきの才能があることを、羨ましいと言ってくれた。

私は彼に、高校卒業と共に、音楽の道を目指して音楽大学に入っていること、ずっと指で奏でられるくらい、知らない曲が無いこと。もう既に人を魅了するピアノが弾けること。全て羨ましくて、尊敬すると話した。
彼は「いやいや」と下を向いて照れくさそうにしていた。

それからどうして私にsummer snowが良いと思ったのか聞いてみた。

「その歌がこの世で1番好きな曲だから。好きになった人に歌ってほしかった。」と言った。

最後の一文を聞いた事にしたら良いのか迷っているうちに、彼が続けてこういった。

「あの、付き合ってください!あのいや、結婚してください!」
「はい!」と迷わず私は答えた。


その日のうちに私達は、2人で役所に向かい、夜間の入り口で婚姻届を貰いにいった。

私も、彼しかいない。
そう思っていたから、全くびっくりしなかった。
運命を感じるとはそういうことか。という感情に包まれていたから、そうする以外考えられなかった。

嬉しくって2人で手を繋いで、役所の前でずっとジャンプをして跳ねていた。

家に会ってほしい人がいるとの事で、一緒に帰ろうと彼の住んでいる家を案内してくれることになった。

家はジャズバーから徒歩で行ける距離だった。私の家からバイト先や大学行くよりも断然近い場所だった。
彼はこんなに近所に、こんな良い店があることをなんで知らなかったのかと、何度も悔しがりながら、それにしても暑いねと、歩いて家に向かった。

家に着くと、フレンドリーな男性が迎えてくれた。一緒に住んでいる男性も今大学4年生で、音楽大学に通っているらしい。

フレンドリーな上に酔っ払っていて、まだお酒を飲もうと、私たちを外の庭に連れ出した。
そして彼がさっき、私にプロポーズしたことを伝えると、口に入れたビールをシャワーのようにキレイに吹き出した。
「えー!おめでとう!俺まで嬉しい!」といってくれた。
「じゃ今日から家に人が増えるんだね!賑やかになって楽しみだな!」と話してくれた。
話を聞いていったら、なんと彼のお兄さんだった。

「お兄ちゃん、保証人になってくれるよね?」
「もちろん!」

私は、この方がお兄さんであること、3人でこの家に住むことが決まったことのスピードに、少し頭がついていかなくて、やっと今の自分が、普通じゃないことに気がついた。

このおうちはどこからどう見ても、大きくて、とても広い。こんなに広いおうちに2人なのかなと考えていたら、お兄さんがとてもおしゃべりで、どんどん教えてくれた。

「うちは両親がとてもお金持ちでね、俺も弟も小さい頃からピアノを習わせてもらっていたんだ。両親はお金持ち故にとても自由でね、弟が大学を卒業する頃には、私達海外に住むからって、家を探しに行く旅行に行ったんだけど、その飛行機が墜落して、両親は亡くなってしまったんだ。この家は『2人が結婚しても、2人の家族と住めるように大きく作っておいてあげるから』って建ててくれた家なんだ。」と話してくれた。

彼が「ここからは俺に話させて」と彼がお兄さんに言った。
「あいちゃんが、本当にさっきプロポーズを受けてくれたのはびっくりしたけれど、凄く嬉しかった。ここから色々大変そうって少しずつ思ってきたよね。衝動を止められなくてごめんね。本当に嬉しかった。生活費は、両親が充分過ぎるくらい残していってくれたのもあるんだけど。」続けて彼は
「僕、実はもうプロのジャズピアニストとして活動が始まっているんだ。大学と両立して、しっかり収入がある。だからあいちゃんを幸せに出来る自信があるよ!だからさっきプロポーズしたんだ。明日ご両親にちゃんと挨拶に行くよ。引っ越しは少しずつしようね。」

18歳の私の初恋は凄いことになっていた。
バイト先と大学に近いおうちに、ジャズピアニストで旦那さんになる彼とそのお兄さんと一緒に住む。

私の方が衝動的で何も考えてなくて、ただ運命を感じて、きっと普通でいう付き合うという感覚で結婚しようとしていた。

『今日は帰る?送るよ。」と言ってくれたのだけれど、気付いたら終電なんてとっくの昔に無くなっていたことを告げると、彼は電車に乗るということが日常に無いので、気付かなかったことを謝ってくれた。
「両親は、心配しない?」と聞いてくれたので、「連絡してあるよ。」と伝えたら、ホッとした顔で
「じゃ、あいちゃんの部屋を案内するね」と言って家の中を案内してくれた。

でも私の部屋になるお部屋には何もなくて、「怖いよ。」と彼に言ったら、近くで聞いていたお兄さんが、「そうか、そうだよね。」と微笑んでいた。

彼は「僕の部屋にどうぞ」と言って、ソファベッドを広げて彼がそちらに寝てくれた。

彼が貸してくれた着替えも
彼のベッドもいい匂いがした。
とっても寝心地がよかった。

ふわふわと幸せに包まれて、朝起きた。
横には、私の起床を待ちながら譜面を書いている彼がいた。
「おはよう。よく寝れた?」と言って、私に洗面台を案内してくれた。

キッチンに行くと、お兄さんはもういなくって、お兄さんが作ってくれた朝ごはんが置かれていた。2人でテレビを観ながら無言で食べた。彼は考えごとをしている様子だった。
今まで一緒に食べていたかの様な、自然な空気に包まれていた。

彼の準備が終わるのを居間で待っていた。
私の両親はきっと、またお友達の家にでも泊まってるのだろうと軽い気持ちで、待っているに違いない。大学生活大いに楽しんでね!と言ってくれる、あまり厳しくない私の両親だけれど、なんて言われるかとても怖かった。

スーツに着替えた彼がやってきた。挨拶のために1番良いのを着たと張り切ってくれていた。
「あいちゃん、変じゃない?」その質問が可愛かった。私は改めてスーツ姿の彼にも恋をした。
「うん、カッコいい!」と笑顔で答えたら、少し彼がジャンプした。

彼は電車に乗る前に、家の近くで、箱のお菓子を買いたいからと、私にあそこでシェイクを飲んで待っててと、シェイクを買ってくれた。暑かったので美味しかった。待っている間、お父さんとお買い物に出ると、必ずバナナ味のシェイクを食べていた小さい頃を思い出していた。

私の家に着くと、お母さんしか家にいなかった。
お母さんは、もちろん友達を連れてきたのだろうと、「さぁさ、上がって」とワクワクしていた。
すると、彼がさっき買った箱のお菓子を渡したのだけれど、お母さんがびっくりして、
「こんな高いお菓子、大学生が買ったらダメでしょう!」と笑いながら話した。続けて彼が
「あの!あいさんをください!昨日あいさんのバイト先のジャズバーで知り合って、僕が一目惚れをして、申し込んでしまいました。お父様が来たら、もう一度挨拶させてください。」と深々とお辞儀をした。

私は怖くて怖くてお母さんの顔を見れなかった。
けど、お母さんの口から出た一言にびっくりした。
「あいちゃん、幸せな顔してる!」と。それから
「あいちゃんは音楽が好きすぎて、没頭しちゃってたから、お父さんとお母さん結婚出来ないんじゃないかって、2人で実は心配してたの。お母さんこれで良かったと思ってる。でもこれからどうするかだけ、2人から聞かせてもらっていい?」と話した。

お母さんの柔軟さにとてもびっくりした。
うちは普通の家庭で、普通に育たなければならないと思っていたから、怒られることを前提で来たのに、お母さんは怒るそぶりを1ミリも見せなかった。

彼はお母さんに、あそこの家に住む事、生活費はご両親の充分過ぎる遺産と、自分のジャズピアニストの収入で、私の事も大学を卒業させると話してくれた。

お母さんは大学のお金は、私たちが責任を持って卒業させるつもりだったから自分達が払うと話してくれたけれど、彼は夫になるのだから、自分が出すといってくれた。

お母さんが、お父さんの携帯にメールをしたら、すぐに電話がかかってきて、私たちにこういった。
「お父さん嬉しいよ!おめでとう!帰ったら一緒にご飯を食べよう!」と言った。びっくりし過ぎて、本当にこれでいいんだよねと、ほっぺたをつねった。彼とお母さんはとってもニコニコして笑っていた。

お父さんが来るまで、私の部屋に案内した。
彼が私のピアノを見つけて、カラダが勝手にというのはこういうことかというくらい、まっすぐピアノに向かい、曲を弾き始めた。

その姿を見て、私はこの人と結婚するのかと、不思議な気持ちが込み上げてきた。嬉しくて胸がいっぱいで、毎日いたこの部屋が、ジャズバーに見えた。

お父さんが帰ってきた事も気付かずに、私は彼のピアノを聞き惚れていた。
彼が曲を一旦引き終わって、手を膝に置いたタイミングでトントンとドアを叩いて、お母さんが呼びにきてくれた。

また私は少し緊張した。
けど、彼は全く緊張していなくって、少しお父さんに会えるのをワクワクしている様に見えた。

お父さんはとっても笑顔だった。
「あいちゃん、急でびっくりしたけど、お母さんと同じ気持ち。結婚しないと思っていたから、お父さん本当に本当に嬉しいよ。」続けて彼に「あいちゃんのこと、よろしくね!」と言った。
彼は「絶対に幸せにします。というよりもう幸せです。」と話して、みんなを笑わせた。

彼はお父さんに、婚姻届を差し出して、「宜しくお願いします。」と保証人の所にサインしてもらった。

お父さんとお母さんと4人で食事をしながら、お父さんは彼に私の事を話し始めた。
「あいちゃんは普通ができなくてね、一生懸命普通に過ごそうとするんだけど、どうしても何をしても音楽に負けてしまっていたんだよ。小学生の頃も友達と遊ぶより、ずっとCDを聴いていてね。アイドルの歌なんか、ご飯の前に踊って見せたりしてくれてね。高校生の頃、部屋から出てこないと思ったら、ジャズのCDをご飯も食べずに聴いていてね。ご飯食べなくて大丈夫?と聞いたら、なんて言ったと思う?『私、音楽と結婚する』って。」

そんな事を言っていたことを思い出した。
恥ずかしかったけれど、お父さんが笑って話してくれたので、照れ笑いした。

お父さんとお母さんに、改めてどうしてこんなにすんなり受け入れてくれたの?と聞いたら、お母さんが口を開いた。
「無理して、普通の大学に行って、あいちゃん毎日元気なくて。お父さんとお母さん、あいちゃんが音楽の道に進むように背中を押してあげれば良かったってずっと後悔していたの。そして、ジャズバーでバイトしてからのあいちゃん、毎日イキイキしてて。その先で出会ったんでしょう?このまま、あいちゃんが元気で笑顔で過ごしてくれるなら、この結婚を応援してあげたいって思ったの。あいちゃん、お父さんとお母さんが、普通だから気を使ってくれていたんだよね。でもね、お母さんも実は、スナックのママさんだったのよ。歌が上手いママさんがいるって有名だったの。お父さんがそこのお客様でお母さんに惚れて、結婚したの。この話、初めてしたね。」

お母さんは自分が水商売をしていたことを後ろめたかったらしい。だから今まで言わなかったとのこと。それが、少し私が自分に似ているところがあって、微笑ましかったけれど、夜の道には進んで欲しくないから、普通を過ごそうとする私のことも応援してくれていたらしい。

お父さんが「でもね、水商売とはいえ、お母さんはすごく頑張っていて、その辺のスナックとは少し違ったんだ。実はあいちゃんが好きなジャズがかかっていてね、高級なんだけど、誰でも来やすいように、カジュアルな雰囲気も出すお店でね、お父さんはここをスナックというのが、勿体無いと思いながら通っていたんだ。ジャズバーでも良かった気がするよ。ま、惚れたのはお母さんの方だけどね!」そう2人で笑いながら話していた。

今まで、音楽の道に本当は進みたかった自分を、本当は応援したかった両親の気持ちが伝わって、長年の肩の荷が降りた気がした。
それだけで夢が叶った様な気がした。

それもこれもこの話を聞けたのは
彼のお陰だった。

お父さんとお母さんの案で、みんなで私の部屋で彼のピアノを聞きながら、お茶する事になった。彼はまたカラダが勝手に動いているかのように、私の知らない曲をたくさん弾き始めた。

お父さんとお母さんはお茶だと言ったのに、ワインを飲んで、彼にも勧めていた。彼は「頂きます!」と少しずつ飲みながら、弾いていた。
私は、それを横目で見ながら、お母さんが入れてくれた大好きなピーチティーを飲んでいた。

彼のピアノだけが鳴り響いて、なんだか静かだなと、横の2人の顔をみると、お父さんとお母さんは、涙していた。
お父さんはお母さんの肩を撫でていて、お母さんは一生懸命ハンカチで涙を拭っていた。

私は、お父さんに昔言った【音楽と結婚する】と言った夢が、本当に叶ってしまった。こんなに幸せでいいのだろうかとまたほっぺたをつねろうとする前に、私のほっぺたを伝った涙が、現実だって教えてくれた。

一曲弾き終わると彼が側に来て、手で涙を拭ってくれた。
「絶対に幸せにするから」そう言って、またピアノに向かっていった。そしたら彼も泣いていた。

電車の時間になり、少し荷物を持って、彼の家、いやもう自分の家に帰る時間になった。
お父さんとお母さんは毎日でも遊びにきてねといってくれた。
あと、大学は絶対に卒業する約束もした。

そして、私達は帰りに役所に婚姻届を提出し夫婦になった。
ハグとジャンプが止まらなかった。

また彼のベッドに入って、いい匂いに包まれて眠りにつこうとしたら、彼はピアノのある部屋に行って、今日弾いた曲をまた弾いていた。何か思いにふけているのだろう。

そこから、夢のようだけど現実である毎日が始まった。学校とジャズバーと3人のおうちを行き来する毎日。

朝は昨日だけじゃなく、お兄さんは毎日早い様子。けど、やっぱり当たり前のように朝食が置いてある。私の分まで作ってくれて、なんてあったかい家族なんだろうと、毎日心がホカホカになった。

2人で洗い物をしながら、お兄さんが作ってくれる料理が美味しすぎて、絶対に魔法がかかってる!と笑いあった。この人と結婚して本当に良かったと、毎日思っていた。

彼が掃除機をかけている間に、あいちゃんは慣れるまで何もしなくて良いよと言ってくれたけれどできる家事を探してみた。

洗濯はとても大きな洗濯機で、お兄さんがまとめて済ませていた。私の乾いた服を畳んでいたら、横に置いてあった、お兄さんの畳み方がとてもキレイで恥ずかしくなった。彼の服も畳んであったのだけれど、私のは気を遣って畳まずに、かわいいバスケットにまとめてくれていた様子だった。

そして歩いて学校に向かい、今日のスケジュールを大体2人で共有して、また後でね。と言って解散する。

彼は学校と仕事を終えて、私がバイトの日はいつもジャズバーに迎えに来てくれた。
そのスラっと高い身長と、仕事を終えたスーツ姿と顔の近くで振る大きい手に、毎日恋をしていた。

迎えに来てくれる度に、オーナーが2人のデュオを聞きたいと、毎回違う曲をリクエストして、一曲だけ披露して帰る日が続いた。

すると、それが少しずつ口コミで広がって、このジャズバーにも私の歌と彼のピアノを聞きにくるお客様が増えてきた。

私は毎日聴いても、彼のピアノにときめくのだから、初めて彼のピアノを聞くお客様はどんなときめきを持つんだろうと、彼のピアノに毎日毎晩、恋をしていた。

彼も「あいちゃんの歌声に魅力を感じない人なんて1人もいないよね!」と言ってくれた。

オーナーは、「そういえば彼はもう、プロなんだよね。」といって、今日からステージで弾いてくれる時は、ギャラを払ってくれることになった。むしろ今まで、私のわがままで弾いてくれていて、ありがとうと言っていた。
そして私にもバイト代の他に、ステージで歌うときはギャラを払うと言い、今日からもらえる事になった。

音楽で、歌で、初めてお金を貰った。
私の小さな頃からの夢、音楽で仕事をした記念日になった。

これも彼のお陰だった。
彼も一緒によろこんでくれた。

2人で貰ったお金で、今日の晩ご飯に、お兄さんに高級なステーキを買って帰ろうと寄り道して行った。


そんな生活が一年たったある日、両親が私と彼のステージをみたいと、そのジャズバーに来てくれる事になった。

私は嬉しくって、気合いが入った!彼も嬉しくってどうしよう!と私の手をとって、2人でたくさんジャンプをした。彼が、
「あいちゃんのご両親ってすごくあったかいよね。」と言ってくれた。私は続けて「お兄さんも、とてもあったかいよ!毎朝美味しい朝ごはん作ってくれるもの。」

でも2人は気づいた。今日の朝食が無いことに。
するとお兄さんの置き手紙があった。

【俺、やっと仕事が決まった!アメリカの音楽事務所。お別れは寂しいし、またその家に行くし、とりあえず、出発するわ!またね、2人とも!】

そう書いてあった。
私たち2人は呆気にとられた。

お兄さんは大学を卒業して半年位、ずっと就職活動をしていたのは知っているけれど、こんなに急に行くなんて思わずに、とてもびっくりした。
喜ばなきゃいけないのに、空っぽのテーブルの上をみたら、涙が止まらなかった。

彼はそんな私を見て、ぎゅっと抱きしめてくれた。でも顔を上げたら彼の方が震えて泣いていた。

私はすぐに調べた。
「ほら、ちゃんと飛行機着いてる。大丈夫だよ。」
彼は、両親が亡くなった日のことを思い出して泣いていた。お兄さんもアメリカに行くことを伝えると、彼がそれを思い出して、泣いてしまう時間を短くするために、彼に何も言わずに出て行ったのだろう。
そのための軽くて短い手紙であったに違いない。

涙が止まるまでずっとそのまま抱きしめていた。彼の震えが落ち着いてきて、私は安心した。

その手紙には2枚目があって
【今日は2人の結婚記念日だね。おめでとう!冷凍庫に朝ごはん入ってるよ!】そう書いてあった。

冷凍庫を開けたら、作り置きの、とても豪華なパンケーキがあって、
【congratulations 1st Anniversary】と
デコレーションしてあった。

違う涙が止まらなかった。すると
「お兄ちゃんの弟で良かった。」と彼がパンケーキに向かって言っていた。

「両親が亡くなった時、自分が高校生だったから、お兄ちゃんはずっとしっかりしなきゃって、毎日朝ごはんとお弁当を作ってくれて。夜は毎日一緒に、どこに食べに行くか決めるのが楽しみだったんだ。」と話してくれた。「でも、だから、あいちゃんがバイトが無い日に作ってくれる晩ごはん、お兄ちゃんも楽しみにしていたよ。」そう話してくれた。

すると彼の電話が鳴った。
「お兄ちゃん!」と叫んだ。でもその10秒後に、彼は大笑いした。
実はお兄さん、そちらで明日、向こうでいう今日、結婚をするらしい。ずっと遠距離の彼女さんがいて、その彼女さんのそばで仕事をしたくて、チンタラ探していたら、彼女が待ちきれないと、怒り始めたもんで、焦って仕事を見つけたとのこと。

さすがは兄弟だなと、私も嬉しくって、大笑いした。同じ日が結婚記念日になったことも、とっても嬉しかった。

私に電話を代わると、時々作っていた晩ごはんのお礼を言ってくれた。私はすかさず、毎日の朝ごはんとたくさんの家事のお礼を言った。お兄さんは、あいちゃんと一年過ごした事で、2人は大丈夫と確信して旅だったんだ。と教えてくれた。

もしかしたら、その家に帰るのは、定年退職した後かもしれないけれど、日本に2人で遊びに行くから、部屋はとっておいてね!とお茶目に話してくれた。
そして、2人にも遊びに来てほしいから旅行のチケット送ったから!と伝えてくれた。

楽しいことが、二つにもなった。

それでまた2人は嬉しくて、夫婦でずっとジャンプをしてしまった。それが面白くってまたジャンプをしては笑って、ソファに転がり込んだ。

温めたパンケーキを世界で1番美味しいパンケーキだね!と話して、食べ終わった後、2人でまた洗い物をした。お兄さんの今までの朝ごはんで何が好きだったか、ずっと話していた。

その日の夜。いよいよ両親が、お店に遊びに来てくれた。すぐにオーナーにお世話になっていますと挨拶をしてくれた。

お母さんは昔仕事していた時のことを思い出して、「懐かしいなぁ」と言っていた。
もう既に酔っ払っていたお父さんは、「お母さんの歌を聞きたくて毎日お店に通っていたんだけど、なかなか歌ってくれなくてね、ママさんだからきっと勿体ぶって稼いでたんだよ。」とうちのオーナーに笑って説明していた。オーナーも笑って聞いてくれていた。

オーナーは私が一生懸命働いてくれること、お母さまにきっと似たであろう素敵な歌声で、お客様を魅了していますよ。と褒めてくれていた。

ライブは時間通りに進み、最後の曲になった。
私と彼を繋いでくれた
summer snowを両親の前で披露した。

するとお父さんが何かをお母さんに話していて、お母さんの顔がより煌めいてみえた。

拍手喝采。たくさん拍手を頂いた。
ステージを降りると、お父さんとお母さんが結婚記念日おめでとうと、お花をくれた。
周りももっと拍手をしてくれた。
嬉しくって、2人でまた朝のようにジャンプして喜んだ。

オーナーは、2人が初めて出会った日、こうなる気がしてたんだよね。と話してくれた。
オーナーも結婚記念日のお祝いだと、私にはシャンメリーを、彼とお父さんとお母さんにはシャンパンを開けてくれた。

お父さんとお母さんに「そういえば演奏中、何を話していたの?」と聴いたら、お父さんが
「初めてお母さんのスナックに行った日、お母さんのお店にコレが流れていてね。そのCDをお母さんがあいちゃんを妊娠している時に、お父さんよく流していたんだよ。」と話していた。
私は両親の思い出の中にsummer snowがある事にびっくりした。
そして私がこの曲を好きな理由もわかってとても面白かった。

2人が大好きなその曲のお陰で、彼と結婚出来たんだと、改めてまた喜びを感じた。


そしてまた時は過ぎ、私が3年生に上がって彼は音楽大学を卒業した。
彼はジャズピアニストという職業があるので、就職活動はしなかったけれど、前よりもっと忙しくなっていった。

広いおうちに1人だと寂しいので、実家に帰る日が多くなった。
けれど、彼はゆっくりできる時間が出来た時は、必ず実家に迎えに来てくれた。その時は両親が一緒にご飯を食べて行きなさいと、いつも出してくれた。

そして必ず両親は彼に一曲お願いする。彼も嬉しそうに、両親に毎度曲をプレゼントしてくれた。
両親と一緒に、うっとりするこの時間が大好きだった。

ようやく20歳になった私と22歳の彼。
夫婦とはいえ、片方は学生で、まだまだ子供として扱ってくれる。
いつまで甘えられるだろうと、私達がまだこれから大人にならなければならないという事を、考える日が多くなった。

その年の夏、私の夏休みに、彼が長い休みを取れることになった。
結婚記念日と被るのでとてもワクワクしていた。

やっと、お兄さんが送ってくれたチケットを使う時がきた。お兄さんも同じ結婚記念日だから、何かお祝いしようと、2人で計画を立てた。

ワクワクする彼がとてもかわいかった。きっとお兄さんに会える事がとても嬉しいのだろう。彼が最近弾く曲も、明るい曲が多くなって、わかりやすい性格が夫婦共々似てきたなと思った。

私は両親にアメリカのお土産は何が良いか電話したら、お父さんが「夫婦茶碗!」と言った。
私は「それ、日本のどこかのお土産でしょう!」と笑った。
小学生の時の、修学旅行の時もそうだった。お父さんに「お土産は何がいい?」と聞くと、「大きな車!」と言って、お母さんと私を笑わせた。何も要らないよ。という意味の優しい気遣いは、小さい頃から変わらない。

スーツケースに私が荷物を詰めていたら、彼はお財布と携帯しか持たないという。そしたら
「お嫁に来た日のあいちゃんと一緒だね!」と笑っていた。
もうすぐ2年か。こんな楽しい毎日が続くと良いな。そう思って、アメリカに旅立った。

お兄さんと奥さまが空港で迎え入れてくれた。お兄さんは、すっかりアメリカ色に染まっていて、私にすぐにハグをしてくれた。
日本人そのものの私は、びっくりしてしまったけれど、すぐに奥さまがハグをしてくれて、びっくりした気持ちも飛んでいった。

彼はお兄さんとのハグをなかなかやめなくて、足元だけ親に会った子供のようにジャンプをしていた。その姿を見れて、私も嬉しかった。

奥さまは日本人と聞いていたけれど、外国人と間違ってしまうような、とてもキレイな人だった。
奥さまは、妹ができるのが夢だったといい、お姉ちゃんと呼んでと言ってくれた。私もお姉ちゃんができて嬉しかった。

4人で、お兄さん達のおうちに行くと、赤ちゃんのグッツが並んでいた。
実はお姉ちゃんは妊娠しているらしい。私は目を見開いて喜ぼうとしたその時、彼は私の手を取って、一緒にジャンプをして喜んだ。

お兄さんは家で何度もみた懐かしい光景だと笑い、お姉ちゃんはとても仲がいいのねと、笑顔でこっちをみていた。

私たち2人で用意した、結婚記念日のプレゼントを渡そうとしたら、クラッカーがなって、2人も私たちの2周年をお祝いしようと、大きなケーキを運んできてくれた。
あの日の1周年のパンケーキを思い出して、2人で少し涙ぐんでしまった。

お姉ちゃんが、嬉しい時は笑わなきゃ!と指を差した先に部屋があって、そこを開けると、バンドセットとピアノがある、楽器専用のお部屋があった。

お兄さんとお姉ちゃんは、じっと彼を見つめて、彼がピアノを弾くことを期待していた。
彼はもちろん勝手にカラダが動いて、ピアノを弾き始めた。

彼はmy favorite thingsを弾いて、私の顔を見てきた。私も勝手にカラダが息を吸って歌い始めた。そしたらお兄さんもお姉ちゃんも一緒に歌ってくれた。
お姉ちゃんは、あの映画の修道女のように子供を心から愛したいと話してくれた。私は、お姉ちゃんはもう既に、心からお腹の子を愛していると感じていた。

そして彼はsummer snowを弾いた。私が歌った。
お兄さんが涙した。彼もそれを見て泣いていた。お姉ちゃんが「この曲ね。」と言った。
今まで彼は、悲しい思い出だから、私に言わなかったけど、実は両親がとても好きな曲で、亡くなった日もそれをお兄さんと2人で聞いていたそう。

お兄さんは、彼がプロのジャズピアニストになった時に、兄の役目は一回終わった気がしたのだけれど、まだこの曲を彼が部屋で1人で聴いていたのを知っていて、彼を1人には出来ないと思っていたとのこと。
それで、少し待っていてくれないかと、先に留学していたお姉ちゃんに、お願いしていたらしい。

そこに私が現れて、彼が毎日笑顔でこの曲を弾くようになってから、着々とアメリカに来る準備を進めて、ようやく結婚出来たと話してくれた。

「あいちゃん、うちにお嫁にきてくれて本当にありがとう。」
お兄さんがそう言ってくれた。

私はすかさず、
「まだ何も知らずに結婚して、何にもできない私を受け入れてくれたことにとても感謝しています。」と伝えた。

結婚ってこんなに幸せなの?とほっぺたをつねろうとしたら、彼がその手を掴んで、本当だよと言ってくれた。4人でまた大笑いした。

次の日ニューオーリンズという町に連れ出してくれた。そこは音楽の町で、音楽がそこら中に転がっているようだった。
道ゆく道で、いろんな人がストリートミュージックを楽しんでいて、私も彼もカラダが揺れ動くのを止められなかった。

そこにストリートピアノが置いてあって、彼がピアノを貸してほしいと申し出たら、そこの人が、「FREE!!」と自由に弾いていいことを教えてくれた。

彼はAutumn leaves最もジャズで有名な曲を弾き始めた。そしたらあれよあれよと人が集まり、楽器を持ったその辺の人が、一緒に奏で始めた。
彼は楽しくて仕方なかったのか、ソロをいつまでも何周も弾いて、周りの外国人もそれに乗っかって、どんどんソロを弾きたい人が並んでいるようにも見えた。
お兄さんとお姉ちゃんも、楽しそうな彼をずっと見ていた。

お兄さんは、彼より下手だから嫌だといっていたけれど、彼がピアノのところまで引っ張っていった。「お兄ちゃんあの曲弾いてよ!」と言ったのが、someday my prince will comeで、弾いたらプロ顔負けの上手さだった。お姉ちゃんがうっとりしていた。
きっとお姉ちゃんは、お兄さんをこちらで待っている間、この歌と似た様な気持ちになっていたのではないかなと思った。
うっとりしてしまう気持ちは、私も手に取った様にわかる。

そしてなんと。
お姉ちゃんは実はドラマーで、妊婦と思わせないほど、キレイに力強いリズムを刻んでいて、ドラムを貸してくれたドラマーが呆気にとられていた。
お兄さんが「あぁ!生まれちゃったらどうするの!程々に!」って、慌ててお姉ちゃんの側に駆け寄った。私と彼は目を見合わせて、大きな口を開けて笑った。

時間を忘れて、家族で音楽を楽しんでいた。
もうその日一日中、心がものすごく躍った。
楽しくて楽しくて仕方がなかった。

気がついたら日も暮れてきて、そろそろ帰ろうかと彼が弾いてる横で、3人で話していた。

すると彼が「あいちゃんは何を歌いたい?」とピアノの方から声をかけてきたのだけれど、その2人の間に、現地の女性が割り込んで、彼をナンパしているのがわかった。私は英語がわからないので何て言っているかわからなかった。

すぐに見ないようにしていたけれど、彼が一生懸命断っているのはわかった。
言葉の一部で女の人が【Distiny】ようは、運命と言っているのはわかった。

彼に運命を感じるのは私だけではなかったのかと少しヤキモチを妬いた。

家に戻り、彼は興奮が冷めやらぬ、ずーっとニューオーリンズの話をしていた。私は楽しそうな彼がとってもかわいくて、彼の話を私も楽しんで聞いていた。でもさっきの女の人の話は教えてくれなかった。

お兄さんと彼が2人で席を立った時、お姉ちゃんが話してくれた。
「英語でわからなかったでしょ?さっきの女の人、運命感じたって伝えていたけど、一生懸命、僕の運命の人はあの人だって、あいちゃんの事指さして断っていたの。」と。「運命の人っていうフレーズをあいちゃんで、最初で最後にしたかったのに、違う人に言われて、きっと思い出したくないんだね。」そう教えてくれた。
本当はモヤモヤしていた気持ちがお姉ちゃんのお陰ですぐに晴れた。

空港までお兄さんとお姉ちゃんが車で送ってくれた。4人でニューオーリンズで撮った写真と素敵な写真立てをお土産にくれた。2人は毎月でも遊びに来てね!と笑って言ってくれた。
彼はお兄さんと握手した手を離さなかった。

帰りの飛行機で、彼はまたずーっとニューオーリンズの話をしていた。「音楽に溢れている町に憧れを抱いてしまった!」と目を輝かせていた。「私も楽しかったまた絶対に行こうね!」と話した。


そして私は4年生になった。
とある夏の朝、彼が先に仕事に行き、朝食を取り終わると、もの凄い吐き気に襲われた。
まさかと思い、検査をすると、私は妊娠をしていた。
でもすぐに思い出したのは、両親との約束で必ず大学は卒業すると言っていたこと。絶対に学校は休まないと決めて学校に行く準備をした。

いつ彼に言おうかと考えていたら、郵便が届いた。また彼のお兄さんから、【あいちゃんの夏休みにまた、アメリカに遊びにおいで!みんなで結婚記念日を祝おう!赤ちゃんにも会いに来て!】と旅行のチケットが届いた。

早く赤ちゃんに会いたいな。
結婚してそろそろ3周年か。早いなぁ。
とっても嬉しかったけど、確か妊婦は飛行機に乗れなかったっけ?と、体調が悪いのも相まって複雑な気持ちになった。

大学に行くと、彼から、今日は一緒にゆっくり晩ご飯食べられるからお家で待っててね。と連絡が入っていたので、その時に言おうと決めた。

彼は帰ってくると、いつも通りぎゅっと抱きしめてくれた。そしてテーブルの上にある、お兄さんからのチケットをみて、興奮して彼がこう言った。

「あいちゃん、3周年からさ、ニューオーリンズに住もうよ!あいちゃんの学校編入してさ!」
私は言葉に詰まった。彼は今まで見たことのない悲しそうな顔をした。
「プロポーズした時のあいちゃんみたいに、喜んでくれるかと思った。ごめんね。」といった。

私もあの日、本当にとっても楽しかったから、そうしたかった。お兄さん家族も近くにいるし、とっても行きたかった。
けれど、でも、今こんなに具合が悪いのに、妊娠して知らない土地に住むことにはとても不安があった。
「ニューオーリンズで毎日音楽を奏でられたらさ、あいちゃんも毎日楽しいと思わない?」と聞いてきた。同じことを2回も聞くのはとても珍しい。きっと、お兄さんに会いたくて寂しい気持ちも爆発したのだろう。「うん、そうだね!」と笑顔で答えた。

そしたら彼は、「あいちゃん今日元気がないよ?どうしたの?」と聞いてきたので、「実は風邪をひいたの。」と言って誤魔化した。

そしたら彼は、またとても謝って、
「ご飯作らないで、僕が作るから!」と言って私をお姫様抱っこして、ベットまで連れていってくれた。

私はベッドの中で思った。
あの悲しそうな顔は本気でニューオーリンズの事を真剣に考えている顔だ。きっと彼はニューオーリンズに行ったあの日からずっとその事を考えていたんだ。なのに、私は彼の夢を奪おうとしてしまった。今も彼はきっと悩んでいるに違いない。

私は彼に悲しい思いをさせたくない。

だから、彼を1人でニューオーリンズに送り出そうと決めた。そうでもしないと、私を気遣って、日本に残って、彼はいつまでもニューオーリンズへの未練を消せないであろう。

大学に入学したての頃、楽しくなかった私を心配してくれた、両親の気持ちが初めてわかった。

次の日、私は
「ニューオーリンズに先に引越ししてて良いよ!私、こっちの大学卒業したいから。卒業したら引越しするよ!たったの半年ともうちょっと。寂しくないよ。」と答えた。
彼は目をキラキラさせて言った「僕が寂しいから、あいちゃんに、毎月会いに来る!!だから、そうしていい?」

そう言ったきり、彼は次の日、お財布と携帯だけ持って、ニューオーリンズに引っ越していった。彼らしいと思った。

両親は彼に言わなかったことを、私の意見だと尊重して、実家に帰った時は笑顔で迎えてくれた。
卒業する約束はしたけれど、無理もしなくていいからとお母さんが言ってくれた。「しっかりした旦那さんと一緒なんだって、充分にわかったから、その約束、チャラ!」と笑って話してくれた。

彼は毎日気を遣って、私がバイトを終えた頃の時間に合わせて電話をくれる。向こうの午前中の時間にあたる。そして大体1時間おきにメールをくれて、色んな話をしてくれる。
ニューオーリンズでもやっぱりすぐに、仕事が見つかったという。彼ならきっとそう。絶対に大丈夫なことはわかっていた。

そして、かわいいかわいい姪っ子の写真もメール送ってくれた。嬉しい気持ちでいっぱいになった。
彼は電話であいちゃんとジャンプしたいけれど、出来なくて寂しいから、あいちゃんの写真を送って!と言ってくる。私は恥ずかしいから嫌だよと、笑って断る毎日が続いた。

そんな日が6ヶ月続いた。彼は【毎月帰りたいのに、仕事で1日も休みがなくて、帰れなくて本当にごめんね。あいちゃんに会いたいよ。】と書いた手紙と、段ボールいっぱいのアメリカのお菓子と、あいちゃんに似合いそうだからと洋服を送ってくれた。その洋服は彼の匂いが少しして嬉しくなった。

ジャズバーのバイトは、オーナーが先に私の妊娠とつわりに気づいて、「学校もあるし、今日から産休!」とオーナーから休むように言ってくれた。

電話の機能が発展して、簡単にテレビ電話ができるようになった。彼は、すぐにテレビ電話をしてくれた。

テレビ電話を繋いだら、向こうの電話には、彼とお兄さんとお姉ちゃんと、かわいい女の子が映っていた。

彼は久しぶりにジャンプしようよと言ってきたけれど、出来ないので戸惑っていたら、すぐにお姉ちゃんが、彼を怒った。
「今すぐ日本に帰りなさい。」彼はびっくりしてよくわからない顔をしていた。
「あいが嘘ついていたの今まで気付かなかったの?あい、妊娠してるじゃない。今すぐよ今すぐ。あい、よく1人でがんばったわね。」

顔しか画面に出ない様に電話していたけれど、同じ女性のお姉ちゃんには、顔を見せただけでバレてしまった。

彼は慌てて「あいちゃん、今から行くから!」と言ったのだけれど、私は電話なのを忘れて大きな声で
「ちょっと待って!」と答えた。

「あなたがニューオーリンズに行きたいって言った日、素直に笑えなかったことをとても後悔しているの。一緒に行きたかったのは本当だよ。でもお腹に赤ちゃんが来てくれた時、毎日具合が悪くて。あなたは優しいからきっとお仕事を辞めてしまう。あなたのお仕事、いや音楽を邪魔してしまう気がして。大学生になった時の私と同じ思いをして欲しくなかった。赤ちゃんは現在6ヶ月で、あなたの声を聞いている今、とっても元気に動いている。私は絶対に大丈夫。この子の笑顔もあなたの笑顔も守るの。大学卒業と出産するまで、そっちで待っていて。黙っていてごめんね。」と話した。
本当は今すぐ会いたい気持ちを堪えて、そう話した。
するとお姉ちゃんは横で泣いていた。
「私が待っていた頃の気持ちよりずっと不安なはずよ。あい、会ったらすぐにハグよ。泣いてはいけないわね。あいが決めたこと応援するわ。絶対に可愛い赤ちゃんを見せてね。約束よ。」そう答えた。
お兄さんはお姉ちゃんの涙を拭いて、横で頷いていた。

彼は「あいちゃん、僕、あいちゃんに会いたい。」そう泣いて言ってきたけれど、
「今は、お仕事があることに感謝して。たくさんのファンがあなたを待ってる。赤ちゃんのためにたくさん働いてね。」そう言って電話を切った。

お兄さんからメールがきた。
「あいちゃん、強くなったね。何かあったら遠慮なく、こちらにも連絡ください。」そう書いてあった。
お兄さんは相変わらず、彼の父親としての責任を果たそうとしている気がした。

それから毎日の電話とメールは変わらず、彼と連絡をとり合っていた。彼の休みはどんどん取れなくなり、メールの文からも、忙しいのが伝わってきた。

そうしているうちに春が来て、私は妊婦で大学を卒業した。

それから3ヶ月
そろそろ夏が始まりそうな暑い日だった。
私は無事かわいいかわいい、彼にそっくりな男の子を出産した。

窓際に置いたスノードームをお母さんが揺らして
「summer snow」だね。とお父さんが言った。


それから10年。

私はニューオーリンズへは行かなかった。

息子が一歳になるまで、彼は何度か迎えに行くと提案してくれた。
行かない。と決めてしまうと、絶対に彼は帰ってきてしまうから、もう少しもう少しと先延ばししていた。
そのうち、彼がもっと忙しくなったのと、私の色んな想いが彼に伝わってしまったのか言わなくなった。結局、勇気が出せなくて行けなかった。小さい子供を抱えて夢を見ることができず、私は普通を選んでしまった。

もしかしたら、ずっと彼と息子を会わせられないかもしれないと思って、息子が寂しい思いをしないように、私はシングルマザーだと息子に嘘をついていた。

時が経ち、あろうことか、やっぱり息子はジャズが好きになった。
2歳から私と一緒にピアノを弾き始め、5歳になってからは、favorite thingsに私の好きな物の歌詞を乗せて、私とおじいちゃんとおばあちゃんに聞かせてくれていた。
9歳になってから弾く、Autumn leavesは彼の弾くソロに凄く似ていた。

毎月私が買うジャズの雑誌も、字がわからない頃から、穴が空くくらい見ていた。
その雑誌は、日本人が載ることは珍しい。そこにはその珍しい日本人の彼が毎月載っている。
息子は知ってか知らずか、自分のお父さんのページを開いて、毎日眠っている。

そして、そのページには、毎日飛行機に乗っていて、多い時で3往復していると書いていた。ちゃんと寝ているか、私はとても心配になった。

会いたい。

そこの続きに
【毎日空港でする、妻への連絡が生き甲斐だ】と書いてくれていた。

彼はずっとあれから10年、毎日欠かさず電話をくれて、飛行機に乗る前には必ずメールをくれた。【あいちゃんへの愛は一生変わらない。日本に帰ることは許して貰えないなら、あいちゃんが来てくれるまでずっと待ってる。】というお手紙が入った大きなダンボールに、私が似合いそうな服、それから息子に着て欲しい服とあちらの小学生が食べているという、姪っ子おすすめのお菓子を毎月送ってくれた。最近は両親へのペアルックのTシャツも入っている。

そして昨日、突然。仕事からジャズバーに向かう途中だった。
【息子の10歳のお誕生日をどうしてもお祝いしたいから、明日、日本に行きます。】とメールが来た。
本当は3年前からこの1週間、仕事を入れない様にお願いしていたとのこと。
【あいちゃんにずっと前から連絡しておいたら、来てはダメだと言いそうで黙っていたんだ。怒った?ごめんね。お兄ちゃん家族も一緒に行くから楽しみにしててね!あいちゃんにやっと会える事、とっても楽しみにしている!そして、お願い。僕の愛する息子に会わせて!】と書いていた。

私はメールを見た瞬間思いがけず、小さくぴょんぴょんと跳ねてしまった。

そのままジャズバーに仕事にいくと、もうオーナーとアポをとっていて、ギャラはいらないから、あいちゃんと歌わせて欲しいと言っていたらしい。それで慌てて明日、お掃除の業者を頼んだと言っていた。
私は急ですみませんと謝ったら、オーナーはいつもの2人のことでしょ!明日とても楽しみだよ!と微笑んでくれた。

仕事が終わると、【今日の電話は、明日本物のステキな声を聞くため、万全な体制にして欲しいから休む時間にしよう!あいちゃんに今日はゆっくり休んでほしい。いつも電話でてくれてありがとう。】とメールが来ていた。
私はいてもたってもいられず、ジャズバーから近い、みんなのおうちを、久しぶりに掃除しに行った。お兄さんはそれを知ってか、【やらなくていいからね!】と、メールをくれていたけど、私は楽しみでピカピカにした。

そして今日、10歳になった息子は、さっき電話に出てくれなかったのに、折り返し電話が来た。

「おじいちゃんとおばあちゃんから聞いたよ!今日、お母さんの働いているお店で、あの雑誌の人が来て、ピアノを弾くんでしょ!!僕、会ってみたいよ!僕だってピアノが弾ける所、みてもらいたい!
ねぇ!お母さん!おじいちゃんとおばあちゃんと見に行って良い?僕、ジャズピアニストになるのが夢なんだ!お誕生日プレゼント、それでいいからさ!」と今まで聞いたことのない、ワクワクした、声変わり途中だけれど、彼にそっくりな声で話していた。

きっと、私と彼の電話が終わった後、何故かsummer snowを弾く孫と、孫のピアノを寂しそうに聴く私をみて、いてもたってもいられなくなったおじいちゃんとおばあちゃんが、また電話に出なかった息子に、上手に喋ってくれたのだろう。

「うん!もちろんだよ!!お誕生日、お店でお祝いしようと思ってたの。楽しみだね!生のピアノを聴いたらびっくりしちゃうよ!!あと、今日はきっと大きいおうちにみんなでお泊まり、きっと来週には引っ越しもあるから!準備してきてね!」と言った。

すると息子は
「大きいおうち?みんなで?お引越し?まぁ、それって、お財布と携帯が有ればなんとかなるよね!」と答えた。

私は昔お兄さんからもらった、アメリカ行きのチケットを財布から出して、もしかして、まだ使えるか見てみた。
夏に雪が降ってしまうような、儚くて衝撃的な私の人生は、まだまだこれからだった。

#創作大賞2023 #恋愛小説部門

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