「死にたい」

一口に「死にたい」といっても、いろいろな思いが込められていると思う。

今日の「死にたい」は「めんどくさいから何もしたくない」だ。これは割と軽い方だと思う。「うまくいかなかった」という場合もしかり。「将来が不安」な日もある。「ずっと寝ていたい」という日もあれば「人間関係が難しい」という日もある。本当は「生きていたくない」のかもしれないし、あるいはどの思いも抱えている日もある。

「死にたい」という言葉ほどうっかり口に出してしまう言葉はない。無意識のうちに言ってしまい、一度その思考に飲み込まれるとなかなか這い上がることができない。

確か「うつ病の人の『死にたい』は普通の人の『唐揚げ食べたい』と同じようなもん」というようなことを主張している人がいたと思うが、まさにその通りだと思う。うつではない人が何か欲を抱くのと同じく、うつの人は希死念慮を抱いてしまうのだ。そしてそれはしつこくこびりついて離れない。

死にたいと言ったり思ったりするのは自分自身に対する呪詛だと言われたこともある。呪詛がもはや日常にすっかり溶け込んでしまい、それをやめた方がいいと言われてもなかなかやめられない。死にたいと思わない日の方が違和感を覚えてしまう。

ほとんど常に頭の中を希死念慮が占拠しているため、それを取り除いたら自分はからっぽになってしまうのではないかと思っている。空っぽになったら何を埋めればいいのだろう。楽しみや喜びで心を埋められたらどんなに良いことか。だがいまや、前のように何事に対しても素直に楽しむという至極簡単だったはずのことができなくなってしまった。

いつか「死にたい」がだんだんなくなっていきほかの感情で心を彩ることができればよいのだが、自分でもそうなりたいと望むことができず、ついつい鬱沼に引き戻されてしまう。そしてその"いつか"が途方もなく遠い未来にあるように思われ、それまでの果てしなく長い時間が耐えられそうになくてやはり死にたくなってしまう。

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