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「障害児にしてしまった」と母親が責任を感じる問題について

今日はかなりナーバスなテーマなので、アップするかを数日迷いました・・・w

発達凸凹のお子さんがいるいろんなお母さんのブログや書籍やインスタをよく見ています。
3歳〇カ月から言葉が爆発した!とか、そういう記事を見るにつけ、いっくんもその頃には話せるかな~なんて考えたりして、ASDのお子さんの発達記録はわたしにとってとても参考になっています。

マンガで書いている方も多くて、発達凸凹っ子の親御さんは才能豊かだなぁと思ったり。

人によっては、お子さんが睡眠障害で全然寝てくれなくて、数年間まともに眠れない、子どもにひどい癇癪や他害があり、身体が傷だらけで外に連れ出せずに悩むお母さん…いろいろ読んできました。

お子さんが重度で、もう大人で体が大きいのにずっと介護するように子育てしている人もいますし、その苦労は計り知れないと思います。

診断を受けた時の母親の心理

そんなお母さんたちですが、病院で子どもに発達障害があると診断を受けると、わりと多くの人が、
「この子が育てにくいのはわたしの育て方が悪かったわけじゃなかったんだ」とほっとすることがあるようです。

ただそのあと、子どもの将来を憂いて泣いたり、障害児にしてしまったことに責任を感じたりする傾向もあるように思います。

その中でも特に、「障害児にしてしまってごめんね・・・」という言葉を見るたびに、辛いなぁと思うと同時に、ちょっとモヤっとします。

・育児の責任や結果をお母さんが背負う精神構造を作り上げる世の中や環境がおかしいんじゃないか?
・お母さんが子どもに対して責任を感じるって、なんだか子どもの命に失礼じゃないか??

と思ってしまうんです。

身体の特性とその子の幸せは別の問題


例えば「うちの子わたしに似てブサイクに育ってしまって…ううう」とか、
「わたしや夫に似て、背が低い子になってしまった…」とか、
「アレルギー体質はわたしに似てしまった…」
「運動音痴だ」「頭が悪い…」
とかいうのに似ているように思います。

こういうのって、子どもとしてはどう感じるでしょうか。

それってただの親からのレッテル張りでは…?と思ってしまいます。
もっというと呪いなのでは?と思います。

身体の特性や何かが得意、不得意というのは、子どもの幸せとは関係ないですよね。

うちの夫は身長が163㎝で頭が大きくて5頭身しかないですが(w)、
「俺はもっと背が高ければよかった、足が長ければよかったと一度も思ったことはない。このままで完璧に幸せだ」と言っていて、最高にかっこよいぞと思いました。

こういう世間の、背が高い方がかっこいい、足が長い方がいい、という感覚、大多数の子どもと同じ発達のされ方が良い、といった価値観に惑わされず、その子自身が自分を肯定できているかどうかが大切ではないでしょうか。

ASDの超男性脳仮説の記事にも書きましたが、わたしは卵巣脳腫をしていたので、羊水の中に女性ホルモンが不足していた可能性があるな、と認識しています。


でも、「卵巣の病気をしたのに、わたしがあなたを無理やり産んだせいで、自閉症にしてしまった」なんて1ミリも思いません。(原因として考えられることのひとつにすぎないというのもありますし)
だって、ASDの傾向を持って生まれたことと、彼が不幸になることとはつながりがありません。

言葉を話すのが遅いことと、彼が不幸になることとはつながりがありません。


わたしの個人的なトラウマ談w

わたしはバツイチなのですが、元夫は身体が弱い人で、結婚3年目で仕事が出来なくなりました。
わたしが離婚したのは身体のことというより、彼の母親がすごく子どものために尽くす人で、母親代わりを求められるのが耐えられなくなったことや価値観のずれなどが大きかったのですが…
元夫の母親は、「健康に産んであげられなくてごめん」とよく言っていました。わたしはそれは、夫が自分の人生に向き合うこと、自立することを奪うなぁと思ったものです。自分の身体のことを親のせいに出来てしまう。

結局離婚後に元夫は実家に戻って引きこもりになってしまったようです。
わたしは連絡を取っていないので、今もそうなのかはわかりませんが…

母親が子どもの人生に責任を感じすぎるとこういうことになりかねないと思うのです。

長所や可能性を見出してあげる


いっくんの言葉が遅いのは親としてはもちろん心配ですが、ある意味、言葉というのは認知に枠組みをつくる行為ですよね。言葉として理解したとたん、目のまえのそれを、世界を、カテゴライズすることになる。
カテゴライズをしない状態で他の人よりも世界を見つめる期間が長い。それって、豊かだし、のちのち、何か素晴らしい独創性に繋がっていくものでもあると感じられるのです。

わたしにとっては、いっくんが無事に生まれてきてくれただけで一つ達成。
そして、発達の凸凹を抱えたとしても、あ、そうなんだな、と認識だけして、その特性をなるべく理解して学んで、あとはできることをやる。
母親もその子なりの成長を楽しむ。それでいいのだと思います。

親としてできることは一緒

基本的に育児としてやることは定型児でも発達凸凹っ子でも一緒です。

幼児のうちは愛着をしっかりと形成する。
少しずつ身辺自立をさせたり、社会スキルを身につけさせて、世界を広げてもらう。
安心できる「帰る場所」であり続ける。
チャレンジを応援する。
好きなことを伸ばす。
健康に配慮して食事を出してあげる。
最低限命を守ってあげる。

みんな、同じです。

天才と発達障害

テスラのイーロンマスクは自身のアスペルガーをカミングアウトしていますが、「アスペルガーでよかった」みたいな話をしていました。

発達凸凹の子どもが生まれた人は、ぜひ「天才と発達障害」などといった本を読んでみてください。


もちろん、発達凸凹の人の中でうまく社会でその才能を発揮して天才と認識される人はごく一部でしょう。
でも、天才と言われる人、社会的な偉業を成し遂げた人というのは、ほぼほぼ発達凸凹の人です。
バカと天才は紙一重と昔から言われますが、まともな人間は突き抜けることなどできません。

世の中の「型」に染まらないからこそ、世の中にインパクトを残せるのだと思うのです。

もちろんそんな風にならなくてもいいですが、ASD特有の、好きなことへの集中力や探求力、専門技術を持つ力などを生かして、きっとうまく生きていけるだろうと思っています。

ただ、本当に異人種なので、その特性はよく理解してあげなければ、と思っています。

重度だったり、知的な遅れを伴っているとそれもまた心配になるのは当然だと思います。
そういう意味で、この問題はデリケートですよね。

それでも、お母さんが自分を責めるのは、本当にいいことないと思うのです。

わたしがここでこれを言ったところで何が変わるでもないかもしれませんが、普段からもやっとしていたことを書いてみました。


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