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火星と金星、あるいは男性性と女性性|梨木香歩著『沼地のある森を向けて』


ひさびさに読み返した梨木香歩さんの『沼地のある森を抜けて』。

刊行後、早16年(!)。二度三度と読む中で、インスピレーション浴びつつも今ほどはっきりつかめてはいなかった発見…
それも“天体”や“男性性と女性性”に結びつけた発見があったので記しておきたい。


内容(「BOOK」データベースより)
はじまりは、「ぬかどこ」だった。先祖伝来のぬか床が、うめくのだ―「ぬかどこ」に由来する奇妙な出来事に導かれ、久美は故郷の島、森の沼地へと進み入る。そこで何が起きたのか。濃厚な緑の気息。厚い苔に覆われ寄生植物が繁茂する生命みなぎる森。久美が感じた命の秘密とは。光のように生まれ来る、すべての命に仕込まれた可能性への夢。連綿と続く命の繋がりを伝える長編小説。


※以下、ぬか床のヒミツにもぬか漬けのおいしさにも一切触れないが
ネタバレもアリ


主人公久美が先祖伝来の家宝、「ぬか床」を受け継いだところから日常が急展開していくお話。

その急展開に巻き込まれたひとり、女性のような男性、風野さん。久美の叔母の死をきっかけにして、ぬか床とともに、こつ然と登場する風野さんは、久美が無意識に知ろうとしていた、つまりは生きようとする自分に出会うためのキーパーソンになってゆく。

物語の中盤に差し掛かろうかというところで、突如、暴漢に襲われた風野さんと、そんな彼(であり彼女?)のもとにお見舞いがてら訪れる久美。事件の一部始終、怪我の具合、心境など一通り話したあと、風野さんの生い立ちに興味をもった久美が「小さい頃から正義感が強かったのですか?」と質問するところから、対話は深まってゆく。

封建的な土地柄、体制側、儒教的風土、昭和世代なら身に覚えある感覚を、久美と風野さんと、読者であるわたしも共有しながら思い出話は進む。

「手術するわけでなく、意識的・精神的に“男性”を捨てたけれど、かといって女を選択したわけでもない」

そう語る風野さんの、自ら“無性”を選ぶきっかけとなった家族とのエピソードに、これまで日本民族が一体となって培ってきた伝統的・文化的な“男性性”とはどういうことか、が、ギュッと凝縮されていると感じたし、封建性を差し引いたとしても残る、ピュアで本質的な“男”なる要素(自発、凸、分離、独立、打破…)も感じて、その前後のくだりを読みながら、「これって火星のエネルギーらしい…」と星読みアンテナがピコーンピコーンと電波を受信してならなかった。

久美と風野さんの対話は、
化学メーカー勤務の成分分析員vs野外酵母菌研究者らしく、

「有性生殖」「無性生殖」「クローン」「優生思想」「進化、退化、劣化の可能性」

といった言葉に、
「繁栄? これ以上どこへ行こうってのさ?」など主張を織り交ぜながら、「性別のある楽しさと有害さと、どっちをとるか?」に発展し、(以下も一部端折ったり言葉を前後させてもらうが)

「勝利者、支配者がアイデンティティの基盤にある男をひとり歩きさせてたら、世界はあっというまに滅亡まっしぐら」という風野さんに「女は子宮に全て取り込みたいっていう欲求があるんじゃ…」と久美。

そこに「性器が服着て歩いてるような男は、法において去勢すべき。その方が本人もよほどほっとするだろうに」と被せる風野さんの発言には、

ススーーっと物語を離れて、少し前(いや、けっこう前、今年2月だった)のプロ奢さんの炎上ツイートに通ずるものもあって、今読んだからこその分かりみプラス…という以上に、1959年生まれと1997年生まれ(わたしはちょうどその真ん中!)、それぞれの作家さんの哲学が時空を超えて交差するようで、「異なる年齢域のヒトたちと、同じ物語を共有しうる可能性」を信じていい!と、なにやら勇気づけられたりもしていた。


話を『沼地』に戻そう。この久美と風野さんの対話のワンシーンにおける、ひとつのクライマックスだと思っている部分を抜粋する。

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お見舞いに来たつもりが、いつの間にかハッパかけられている。妙な展開だ。想像もしなかった。

――― ……けれど……でも、そしたら、風野さん、一体、世の中をどうしたい、って思ってるんですか。

――― ……どうしたい?

風野さんが片眉を上げたので、私はそれが、風野さんの主張とは逆行する、男性的ものいいだったと気づき、慌てて、

――― もとい、どうなったらいい、と望んでいるんですか。


                      『沼地のある森を抜けて』
            「4 風の由来」より(単行本版 155ページ)


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ここ、ここのやりとり。
ここでいう「どうしたい」、これこそが“男性性”を象徴し、「どうなったらいい」は“女性性”を象徴する。あるいは、「どうしたい」が火星、「どうなったらいい」が金星なのではないか。

この原型の表し方に意識的にあてはまっていったらどうとかこうとかいう安易なもんではないのだけど、占星術を間に置いて、どなたかとお話を展開していくとき、モノゴトや人物のあり方を理解するのに、“男性的とは?”“女性的とは?”という原型を双方でシェアできていると、どのあたりにいるのか、またはどっちを向いているのかがわかりやすい。

久美はさらに、風野さんとの対話中にこう自問自答する。

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女性性もいや、男性性もいや、って、結局、人間がいやって、ことじゃないのか、それは。

女性性でも男性性でもない、人間性 ―――
それかな。風野さんの探している道って……。

でもねえ……。女性性も男性性も全否定されていいものじゃなし。いいところだってあるのだ……。

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このモノローグにも、とても共感する。
みんな、どっちも持ちつつ、いつどうやって発揮するかにそのヒトがあらわれる。ホロスコープでも傾向が読み取れる。

「男、いちおりた」の風野さんと、「わたしも、女、いちおりた、って感じだったんですよ」という久美が、このあと、ぬか床の精に導かれ、この段階では思いもよらぬ命の旅をする(…としか言い様を思いつかない)。

男性、女性、大正生まれ、昭和生まれ、、、ヒトビトの性の持つ愛着やら憎悪やらが几帳面に取り出され、ひとつひとつ完璧な標本みたいに並べられる中をさまよい歩くうちに、通底する潮の満ち引きのようなおおいなるリズムに包まれて、もし自分もそれに戻っていったとしたら…?と、意識を拡げられる。そんな作品。

家宝である雄弁な「ぬか床」と、語るよりも前に動いてる「粘菌」(風野さんが育ててる)の、それぞれのひたむきさを想うと、自分もあれこれとらわれず、自然な動きを取れるときってあったなーと思い出すようだ。

いっときに比べたら少し下火になった感もあるような「男性性」「女性性」というキーワード。話題になるならないにかかわらず普遍的なテーマだと想うし、未だ自分の中では探求してゆきたいこと。こういった作品を通じてエッセンスを受けとめられるのはうれしい。

星の一葉 ⁂ 図書係

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