音楽をやる者として、「日本人」という枠組みから解放された方が良いのか?

ピーターバラカン氏のBABYMETALまがいもの発言」について未だに考えるオレですが、5年間「和楽器とElectronicsで新しい日本の音楽」を追求した結果、

「日本人って枠組みから解放された方が良いのか、オレ?」

という場所に辿り着いた者です。

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音楽で言うと、日本ってザックリ2つに分断しているのかな、と。

A、BABYMETAL、上原ひろみ、YOASOBIなど「日本独特の感覚」で日本、はたまた世界で成功している音楽を好きな人々

B、Aの音楽を「ダサい」と思い、洋楽中心に聴く人々

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この話、自分でもまとまりきってなくて、ツッコミどころも満載かと思うのだけど、お付き合い頂けれれば。

で、Bの側の問題点は、B側の日本の音楽市場からミュージシャンとかDJが生まれていない、もしくは認知されているミュージシャンとかがほとんどいない、って点なんじゃないかと。

これが「外タレ」ってところに繋がるかと。

Bの人って、極端に言うと「日本人が音楽やらなくて良いだろ」って立場にもなる訳で、音楽フェスがあった場合に、日本人のミュージシャンを必要としていない訳です。

あと、その「外タレ」には敵わないけど、「代理店」のような形で、外タレ1番、代理店2番、みたいな立ち位置でミュージシャンなりDJなり、はたまたライターなどをしていくことになるかと。

で、おそらくHoshinaって、B側の人間で、外タレと互角にやろうと活動してきた人間なんだけど、その存在ってどうよ...ってことかな、と。

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いずれにせよ、A側の感覚で行くミュージシャンとか(それはB側から見れば「ダサい」ってことになるが)は、このまま問題なく過ごせると思うのだけど、B側のオレみたいなミュージシャンがどう生きていくのか、ってのは問題として残っているのだろうか。

自分的に言うと、「日本人から解放される」ことなのかな、とは思っている。

自分はルーツは日本人であるけど、そこよりも自分がDonald FagenのThe Nightflyを30年以上聴いてきたことの方が遥かに自分の音楽に影響を与えているのではないか、と。

「ワテクノ」と題して音楽を作ってきたけど、自分の作るそれは「日本人が作る和な音楽」というより「非日本人が作る和な音楽」って感じだったかな、と。

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バラカン氏は「まがいもの」と言ったのだけど、「日本独特の感性」が世界で通用することをBABYMETALが証明したとも言えるし、それは「日本初」とか言えるのかもしれない。

ただ、それを「ダサい」とか「恥ずかしい」って思うのも間違っていないと言うか、誇れない人々がいるのも事実だと思う。

そう考えると、自分は日本人なんだけど、BABYMETALとかYOASOBIとか上原ひろみより、Led ZeppelinやCurtis MayfieldやHerbie Hancockに親和性を感じる、それで良いのではないかと。

自分が日本人だからということで、日本人のミュージシャンと自分を結びつけなくても良いし、ザックリ地球人くらいの感覚で生きていく方が幸せなのかと思う。

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自分が「日本のミュージシャン」と言われる気持ち悪さは、前述のA側に一緒にされている気持ち悪さなんだと思う。

自分は、そこに巻き込まれるのは好きではないので、たぶん、ここ5年くらいは「日本人から解放される」音楽をやるのかもしれない。

その先のことは分からないし、5年後にBABYMETALを聴きまくっている可能性がゼロではないのかもしれない。いや、無いと思うが。

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「日本の音楽シーンを変えたい」

「日本のクラブシーンを変えたい」

って20代とかの人が思うのは、キレがあって良いな、とは思うのだけど、果たして、それはどう言うことなのか、というのは深掘りしても良いのではと思う。

自分はB側の人間だと思うけど、B側の人々に受け入れられるのは難しいと感じるし、代理店になることを拒否したのか諦めたのか、その時点で、日本を諦めているということになるかと思う。

まとまりが付かないのだけど、ただ、ひとまず、現時点での思考ということで書き残しておきます。

ではまた。

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