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肩書きの無意味さ。あなたは肩書きではない


はいまいどどうも。

あなたは今現在何らかの肩書きってありますか?

部長でもいいし、課長でもマネージャーでも、世の中には本当に種々様々な肩書きがあります。

今回の話は、多くの人が陥っている最大の勘違いについてと、もっと自分らしく生きるためのヒントについてお話ししたいと思います。

・肩書きに飲まれる人々

学校にしろ会社にしろ、僕らはさまざまな肩書きを持ったり持たされて、その肩書きに応じた扱いをされます。

もしくはその肩書きが一般的にすごいとされるものだと、自分からその肩書きにふさわしい扱いを要求する人もいます。

どちらにせよ、それを受け入れるということは、肩書きに飲み込まれてその人個人が消えているということです。

そんな状態で、まともなコミュニケーションを取ることはできませんよね?

でも多くの人は、それを当たり前だと思っています。

目の前の人間を自分と同じ人間として見るのではなく、付けられた肩書きで見て接するようになっています。

"社長"という肩書きには平身低頭でペコペコしていたと思ったら、"部下"という肩書きがついた人には怒鳴り散らしたり、、または"下請け"という肩書きの人には横柄に振る舞ったり。

これはそういうことをする人の性格がダメというよりも、肩書きで人とのコミュニケーションの取り方を決めるということが習慣になっているということです。

まあただのろくでなしの可能性もありますがね。

昔家電量販店で仕事をしていたときに、その電気屋のフロア責任者にみたいなおじさんが来たことがありました。

その瞬間いろんなスタッフがこのすごく緊張して挨拶したり、それに対して横柄に振る舞うおじさんをみて、すごい違和感を感じたことがありました。

ただの腹の出た汚らしいおっさんなのに、なんでこの人はこんなに偉そうにしているんだろう?

これも結局肩書きとそれに付随した権限を、自分のパワーだと勘違いしたのでしょう。

業務を遂行するために便宜上与えられた肩書きと権限を、自分自身と同一視する態度は、いろんなところで見られます。

こういう人って、昔はむかっとしましたが今はとっても哀れでなりません。

吹けば飛ぶような、一時的に与えられた無意味な肩書きで自分自身の感情までコントロールされている姿を見ると、それがなくなった後のただの無名のおじさんになった時どうなるのか、非常に興味深くはありますね。


・肥大化するエゴ

肩書きによって感情が変化するのは、僕らのもつエゴの働きであり、それが肥大化した状態が前述した電気屋の小汚い中年オヤジの例です。

完全に肩書きと自己を同一視して、区別がついてない姿は、人が取りうる姿の中でも最も醜い姿の一つでしょう。

とはいうものの、僕自身も所詮はパンピーですので、ちょっとしか肩書きや役職でエゴが肥大化した経験は何度もありますし、今もきっとCEOとかの肩書きをもったら、地元の友達とか集めて鬼のようにマウンティング地獄をお見舞いすることでしょう。

この肥大化したエゴは、かなり厄介で、どんどん僕らの本来の自分から遠ざけてしまい人生における苦痛をマシマシにしてしまいます。

なぜなら、エゴは基本満足するってことがないからです。

満足しないからこそ、もっともっととなっていき、過剰な欲望がいずれは渇望となりそのままそれが苦しみになります。

僕は肩書きを持つことを否定しているのではなく、そこに自分を同一化してエゴを肥大化させることを否定しているんです。

もしもあなたが穏やかで幸福度の高い人生を生きたいのなら、余計にこのエゴの肥大化は避けないといけないことです。

・あなたは肩書きではない

エゴの肥大化は渇望を引き起こして、苦しみを増やすことにしかならないと言われても、社会で生きていくにはなんらかの肩書きはついてしまうし、それこそ無職でもニートでも、それ自体が肩書きになってしまうじゃないか!

その通りです。

肩書きというのは極端な話、どんな状態の人にもついてしまうもの。

なので肩書きを持たないでエゴの肥大化を避ける戦略は難しいんです。

無職やニートでも、一般的にあまりいいことではないですが、いわゆる劣等コンプレックスみたいな状態になれば、エゴを肥大化させる餌になります。

じゃあどうすればいいのか?

答えはシンプル。

『その肩書きは、私ではない』

そう何度もいい聞かせればいいんです。

結局なんらかの肩書きと自分を同一視してしまうのは無意識の習慣によるものです。

なので肩書きを得たとき、もしくは今の肩書きを意識するときにそう何度も言い聞かせることで、アイデンティティーの混乱は自然起こらなくなり、もっている権限も何もかも、ただ便宜上のものでなんもえらいもんでもないとわかるようになります。

・全ての人は、対等である

そしてもう一つ言い聞かせて欲しい言葉があります。

それは『全ての人は、対等である』という言葉です。

アドラー心理学を学んだことがあれば、聞いたことはあると思いますが、この言葉は多く人が忘れがちです。

これは別に平等と言ってるわけではありません。

対等とは、あらゆる違いを前提として、その上で、同じ人間であると認めて敬意を示すことです。

責任や能力の違いはあれど、それとは別に人として相手に人格を認め敬うこと。

これが習慣となれば、僕らが肩書き飲み込まれて他人に横柄な態度を取ったり、立場の低い人に高圧的に接するなんてことしなくなります。

ただしこれを習慣にするのはとても大変でしょう。

だからこそ、まずはぶつぶつ唱えるだけでいい。

その小さな習慣から、生き方そのものを変えていく小さな一歩を踏み出してみてください。

では。

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