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白湯

人の沸点を見極めることは難しい。
どんなに穏やかに見える人でも、じつは内心、はらわたが煮えくり返っているかもしれない。
沸点に到達したときに、その人がどんな形で怒りを表面化させるかも、それぞれ。

目に見えて形相が変わる人。
言葉尻が強くなる人。
急に無言になる人。
まったく、何も変わらない人。

また厄介なことに、そのエネルギーが向けられたとき、自分がそれを受け止めきれるとも限らない。
なぜ相手が怒るのか。
明らかにわかっていることならしない。
けれども、こちらがゼロの状態で相手の怒りに出くわすと、残念なことに事態は混迷する。

なぜ怒っているのか、何が気にくわないのか、何が悪かったのか。
冷静な問いかけはおそらくあまり意味がない。
呆気にとられていることすら、さらなる火力となってしまうことも多々ある。

逆も然り。
自分の怒りというのもまた、ある一定値を超えれば沸き立つ。
結局のところ、対するすべての人の沸点を把握し、適切に対応し合うことなど不可能なのだ。

時々、あ、これは誤解を生んだかもしれない、妙な言い方をしてしまったかもしれない、と自分の言葉を引き戻したくなることがある。
面倒くさいけれど、そういうことは案外長く尾を引く。

八割くらいは相手も何とも思っていないかもしれない。
けれども、残りの二割はそうでない。
こればかりは、どれだけ気を尖らせても完璧を保つことは難しい。

私は沸騰する水を見るのが好きだ。
次から次へと湧き上がり、ちいさな泡からやがて、ボコボコと噴き上げる大泡になる。
ちょうどいい温かさまで冷ますには、まわりの空気がどのくらいの温度かによって、冷ます時間も大きく変化する。

沸騰するものは仕方がない。
あとは、どうやって湯を冷ますかだ。







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