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おみまい。

見舞いの言葉というのは、本当のところ、存在しないのかもしれない。
思わぬ病、災害、事故、そんなものに巻き込まれたときに、自分ならどんな言葉を望むだろう。
そもそも、苦境にある人に、励みにこそなれ、負担をかけず、気を回させず、それでいて気の利いたひと言をかけるというのは、相当の経験値が必要なのではないか。
正直、見舞いの言葉など要らないのでは、という気すらしてくる。
大丈夫なのか、大丈夫ではないのか、もしくはそれすらわからない状況にある人に、言葉が与える力を測りかねてしまう。

文末に決まり文句のように、「お祈り申し上げます」と付け足す。
さて、誰に祈るのか。
この「祈る」という言葉はなかなかの曲者だと思う。
信仰心とは程遠いところで生てきた自分にとって、おいそれと「祈る」などと口にするのはどうも憚られる。
とはいえ、何かをを最大級望んでいる状態が「祈る」なのだとすると、たしかに「祈る」以外の言葉は即座に浮かばない。
頭の片隅で首を傾げながら、まぁそんなところか、と言葉を結ぶ。

しかし、見舞うというのは想像だけが先走っていく。
そのくせ想像すればするほど、手持ちの言葉は減っていくばかり。
つらいときは、いつもならさらりと過ぎるひと言が悪意に染まって見えたりもする。
そんなことを考えながら、こっちの言葉を引っこめては、あっちの言葉に手を伸ばす。

この先、見舞うことも見舞われることも、少しずつ、増えてくるのだろうか。
そんなことを考えていると、わずかばかりの寂しさに見舞われた。


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