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甘くゆっくり進む。

子どもの頃住んでいた町は、とても田舎だった。
田舎のど真ん中に無理やり都会をつくったみたいな町で。
いわゆる、昔ながらの店や、古くから続く祭のようなものはほとんどない、新興の地。
したがって駄菓子屋なんてのも、町を離れ、大人になってから触れた憧れの場所だったように思う。
スーパーやショッピングモールのお菓子コーナーにあった懐かしいお菓子シリーズが、かろうじて駄菓子屋気分を教えてくれるものだった。

そこに、「ちゃいなマーブル」という砂糖菓子があった。
まん丸でかたくて甘い。
当時はなぜ「ちゃいな」で「マーブル」なのかわからないまま、それがまた謎めいていて、笑いの種でもあった。

ツヤっとした飴とコンペイトウの従妹のような味わいの通称「ちゃいな」は、私と友人の間ですっかり合言葉のようになり、ごっこ遊びの食糧として重宝されることもしばしばで。
遊び疲れた子どもの、まさに糧のようだった。

舌の上で転がすうちに、なめらかだった表面は次第にざらりと変化する。
なにか果物の味がするとか、ミントの味がするとか、そういった華やかさはないにもかかわらず、いくつ食べても不思議と飽きることはなく。
私たちの中で、しばらく密かな「ちゃいなブーム」は続いた。

それほど近しく親しんでおきながら、恥ずかしながらごくごく最近知った。
陶磁器(=china)のようなかたさと、大理石のような艶(=marble)を持つことからその名が付けられたのだとか。
なるほど。
子どものお菓子らしからぬかたさが目指していたところは想像を超えた美しさだった。
人がつくり出したものと、自然がつくり出したもの。
双方のよさを思いお菓子をつくる。
なんだかとても高尚な甘味を戴いていたのかもしれないと、今になって恐縮しきり。

かたくちいさなお菓子は、二か月もかけてつくられるのだとか。
あの頃、私たちに甘やかな楽しみをくれたのは、すこしでも誰かに甘い時間が続くようにと願った人の手によるものだったのかもしれない。


さて、「ちゃいなマーブル」の友はどうしているだろうか。







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