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張り子の中身

学生時代、友人に、「みんながお前みたいに言いたいことを言えるわけじゃない」と言われたことがある。
その時は、ふうん、まぁでも言いたいことが言えるのはいいことじゃないか、くらいにしか思っていなかった。
それでもなにか引っかかるものがあって、ふとしたときに思い出して、その言葉の真意を考えることがある。

最近は言いたいことを言える世になってきたのだと思っていた。
けれど蓋を開けてみると、そんな世界もまるでハリボテのように見えることがある。
いったい誰なのか。
誰を思って主張するのか。
どこから発している言葉なのか。
自分が発している言葉ですら、まるで抜け殻のように見えることがある。

誰がどんなことを言ってもいい。
それはあたりまえのようで、その実、とても身勝手で。
誰かから見えるところに置いた言葉は、もうすでに自分だけの言葉ではない。
言葉は伝える道具。
人前でつかうのなら、相応に磨いておく必要がある。
どんなに研いで、磨いても、きっとそれを嫌悪する人はいる。
心の中に吐き出し留める言葉ならば、掌に納まるノートに書き連ねればいい。

「書き言葉」と「話し言葉」があるように、言葉にも役割分担がある。
遺す言葉、刹那の言葉、とでも言い換えられるだろうか。
ところが昨今、目まぐるしく現れては消えゆく言葉が増え、その境界線は滲んでいる。

切々と書き遺した言葉は流れ去り、刹那の言葉はいつまでも消えずに追いかけてくる。
皆、言いたいことを言っているはずなのに、どこかモヤモヤとした空気ばかりが広がっているように感じるのはなぜだろう。
言葉の輪郭ははっきりとしているのに、霞がかかったように、言葉の向こうが見えない。
なんともいえない不安を埋めるように、言葉は次から次へと溢れる。

だから、ひとつつまみあげては、きちんと中身が入っているかどうか、揺らしてみる。


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