夢見る為のダブルバインド

「理屈っぽいよね」
 と言われる事が多い。
 一番仲の良い友人には「いかちゃんは口で色々言っても情深いよね」と言われるし、自分としてもそんなつもりではないと思っている。でも私が感情的に動くためには「どうしてそうなったのか」の理由が明確に必要であるから、多分そういうところが理屈っぽいと言われるんだと思う。

 とは言え人間なので、一年前に言っていた事と今で矛盾が生じる事はもちろんある。それどころか現在やっている事で相反する感情を抱いたりもする。
 矛盾が生じる事を仕方ないとは思いつつ、矛盾した自分が許せない部分もあるので、そういう時は”今の自分を客観的に見た時どう思うか”を考えて優先する事にしている。
 どれだけその選択を取る事が自分にとって苦しくても、情は切り捨て、客観的に見て正しいだろうと思う方をとる。それでもどうしても切り捨てられない場合はなぜそれを選択するのかを考え、対外的に説明する事が出来る理由を探す。「だって楽しいから」だけでも周りは納得してくれるだろうが、私が私を納得させる為に理由が必要だからだ。

 そうして切り捨てたものがなくなる訳ではない。私は元々は癇癪持ちで直情的だった。でもそのせいで多くのものを失って、多くの時間を無駄にしてしまった。今はバランスをとる為の消化をきちんと行っているから、先を考えながら決断できるんだと思っている。その切り捨てた情や悲しさや理想を加工したのが、私の書く小説や短歌だ。

 何故こんな話をしているかというと、昨日、プロポーズをされた事が理由だったりする。
 ここでいうプロポーズは所謂結婚や恋愛でも、ましてや主従関係でもない。ただ本人が「一世一代のプロポーズ」と言った事と、それは私の人生と相手の人生を左右してしまうような事柄だったので、まぁプロポーズと言って差し支えないかなと思う。
 その時に冒頭の言葉を言われた。
「いかちゃんは理屈っぽいから、こんな感情をぶつけられても困るだろうけど」と。それを言われて、そういう風に見えているのかぁ、と思った。
 私は思った事を思ったまま口に出したり、表現したりするのが得意じゃない。今ここにこうやって書きだしているのも頭の整理の為みたいなもので、その時も泣きながら訴え続ける相手に対してやっぱり理屈で話しをしてしまっていた。「私が聞きたいのはそれじゃない」と何度も言われたけど、それでも感情に対して感情で返す事は出来ない。

 話は逸れるが、自分のモットーとして、「私の代わりはいくらでもいる」と思っている。多分これは変わらないし、事実だ。私と似たような人間も上位互換の人間もゴロゴロいる中で、どれだけ私じゃないとダメだと言われてもそれを信じる事は難しい。
 大分昔、別れる相手に泣いて縋られた時
「今は私じゃないとダメだと思っているかもしれないけど、今つらくてそう思っているだけで、一年もたたない内に今日の感情は忘れてしまうよ」
 と言った事がある。
 その時彼はそうじゃない、きちんとしたら必ず迎えに行くといったが、三か月後はそんな事をすっかり忘れてパチンコを打っていた。別に彼が特別クズだとは思わない。人間なんて、私を含めて大体そんなものだ。
 だからこそ人の言葉というのはその程度にしか響かない。誰が相手だったとしても、響かせない事にしている。いちいち信じて真に受けて、振り回されるのはごめんだからだ。
 
 だから私には理屈が必要だ。「あれがしたい」「こうしてほしい」だけで決断出来ないし、まして美しい理想を語られるだけで納得なんか出来ない。同じ夢を見てやれる事もない。どれだけ近くに居たとしても本音を話す事はない。
 でも泣きながら感情をぶつけられ、双方納得する理由を用意して、その上どう考えても不利益な制限をつけ、それでも私じゃないとダメなんだと言われたら、心動かない訳がない。
 
 私は夢を見れない。夢は寝ている間見るもので、起きて見るそれはただの白昼夢だ。アリスではない私は、二足歩行のうさぎを追いかけられない。
 でも私を立ち上がらせるのもまた、「楽しそうだから一緒に行こう」と手を引く強引さなのかもしれない。

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