見出し画像

昨日までは気体になってきた君 3

「もう少し光あてて〜」

「はい!」

「ラストテイク行きま〜す」

何とか今週の撮影も乗り切った。
このスタジオはやけに日当たりが良くて
10月の冷たい風も心なしか
夏の香りを含んでいた。

「お疲れ様」

酒焼けしたかのような掠れ声とともに
アイスコーヒーを渡されたものだから
一瞬だけ夏の香りが強くなったような気もした。

煙草を吸いながら、
今日手伝わせてもらってる
大学時代の写真サークルの先輩である
松さんの話を聞く。

「最近どうなのよ。もう32でしょ。お互い歳とったけどさ、結婚とかないの?話は」

まぁボチボチっすねと深く煙草を吸い込むと、
ありがたい話が説教混じりに始まり、
言いたいことを言うだけ言って、
松さんは最後のビジュアルチェックに足早に
行ってしまった。

その会話の返答として
頭の中で渦巻いていた言葉。
吐き出せなかった気持ちと
フィルターまであと数ミリしかない煙草の煙を
同時に吐き出していく。

飲み切ったコーヒーの代わりに開いたスマホには
あの日の2人の笑顔が忘れ去った日付とともに
照らし出されている。
煙草を持つ右手の親指で自然と
勇太を隠してしまった。
すると通知音が鳴り、

『10月の後半で空いてる日ある?』

と晴香から連絡が入った。

松さんがチェックから戻ってきたのが、
彼独特の足音と視界の隅に入り、
慌てて画面を閉じて、
初めて大きな商品撮影がその辺りに入ります。
と咄嗟に嘘をついた。

嘘の笑顔で今日の他のスタッフから
差し入れられたコーヒーでもう一度
松さんと煙草に火をつけあう。
ホットコーヒーはもうすでに
冷めてしまっていて、
冷たいとも言える状態でも無かった。
無党派の僕には甘すぎて、

夏の香りは松さんのメンソールに負けてしまった

そこからの会話は全てがうわの空で、
『予定空いているよ』
とどうやって晴香に伝えようかという考えだけが頭の中を駆け回っていた。
いかに勇太を夢中にさせるゲームやおもちゃを
準備するかも、兄の子供へあげたいと言う口実で
松さんに聞いてみたりもした。

気がつくと美味しくなかったはずのコーヒーは
飲み干してしまっていて、
それでももう夏でもないのに、
過剰に入っている砂糖のせいだろうか
喉が渇いていた。
再び夏の匂いがしたんだ。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?