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地の果てで焼肉哲学を聞く

 僕にとって二十世紀末は、ノストラダムスの世界滅亡予言が当たるかどうかを心配する以前に、自分の生活が破綻するかどうかを心配しなければならない時期だった。なかなか仕事にありつけなかった。派遣会社にようやく紹介してもらったのが、若洲での半月間の労働だった。

 今でこそ東京湾岸の行楽スポットとして整備されている若洲だが、当時は埋め立て地を造成して間がなく、ほとんどが更地だった。その一部の区画をアスファルト舗装するにあたり、僕に課せられたのは、敷き均し時と三回のローラー転圧時に、アスファルトの表面温度を測ることだった。簡単で楽な仕事だったが、重要度の低い、いわゆる雑用の部類だったので、やりがいはまるでなかった。舗装直後のアスファルトは湯気が立つほど熱った。おかげで、そこそこ冷たい晩秋の海風に晒されながらも、寒さを感じずに済んだ。

 だだっ広い平地の向こうに広がる、だだっ広い海。地の果てと呼ぶに相応しい光景を眺めていると、人生これからどうなるんだ、という不安が胸の中に充満してくる。それを紛らわせる方法は、ただ黙々と温度を測る、ということくらいしかなかった。

 僕の他に、同じ派遣会社から来た男性がもう一人いた。彼の役割は、アスファルトを積んで続々とやってくるトラックのナンバーを記録することだった。僕と彼は、若洲に来るまで全く面識がなかったが、仲良くなるのに時間はかからなかった。

 彼の印象を一言で表すと、飄々。常にマイペースで、何が起こっても落ち着いていた。以前は某企業の経理をやっていたそうで、七桁の金を横領した、と涼しい顔で言っていた。

 若洲での半月間の仕事が終了して、僕と彼は二人で打ち上げすることにした。若洲から程近い新木場で、焼肉屋を見つけた。焼肉屋での食事は安く済まないので、貧乏の僕は少し躊躇したが、滅多にない機会だからと意を決した。対して彼は、焼肉は横領した金でよく食っていた、と悪びれずに言っていた。彼の方が焼肉に詳しいのは明らかだったので、僕は注文を彼に任せることにした。

 すべての部位を満遍なく、というのが彼の流儀だった。一番好きな部位は? と僕が訊くと彼は、ない、とはっきり答えた。

 それから唐突に、彼の熱弁が始まった。特定の部位ばかり食べていると、人は病気になる、というのが彼の主張だった。いや、焼肉哲学と言った方がいいかもしれない。

 人間の体って、ロースだけでできているわけじゃないだろ。タンも、カルビも、ミノも、ホルモンもある。それぞれの部位に含まれている栄養素は、それぞれで違う。それは牛でも、豚でも、鶏でも変わらない。だから特定の部位ばかり食べていると、栄養が偏ってしまう。健康を維持するためには、牛、豚、鶏の体を構成しているすべての部位を食べなきゃいけない。

 人間の体を焼肉の部位で表現しないでほしかった。

 いろいろとツッコミどころのある理論ではあったが、僕は終始頷きながら聞いていた。無理に合わせていたわけではなく、素直に興味深く、面白いと思った。

 人にはそれぞれ独自の哲学がある。そしてその哲学が基礎となって、人それぞれの世界が構築されている。世界は人によって異なり、同じものはひとつとしてない。

 自分の哲学を他人に話すのは、案外リスクの高いことだ。間違いを指摘されると、かなり恥ずかしい上に、下手をすると自分の世界の修正を迫られるかもしれない。

 それでも彼が自分の哲学を話してくれたのは、僕にそれなりに打ち解けてくれたからだろう。

 彼の哲学を知って、僕は彼の世界の一端に触れることができた。仕事に恵まれず生活に困窮しても、僕はひとりじゃないと思うことができた。些細なことかもしれない。それでも生きる希望が、勇気が湧いてきた。少なくとも、世紀末を乗り越えられるくらいには。

 あの頃、東京の果てに来られて良かった、と素直に思っている。

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