何回逃げてもあきらめても同じ道に出ることを知ってる
私は小説を書きたいという夢から、主に20代のころ50回をくだらないほど逃げている。書こうとしても上手く書けなかったことが主な原因なんだけど、それでももうちょっとがんばりようがあったかもしれないと今振り返ると思う。
親にも、恋人にも「もうあきらめた」「才能がないから」と告げて、でも一週間もすれば「また目指してみようかな」と言ってあきれられた。ただのメンヘラかまってちゃんである。
noteを始めたころから、少しずつ短いものから書けるようになってきたのだけど、それでもなかなか長いものを書くことができず、小説を書きたい思いはくすぶるばかりで、ちっともうまくいかない。
いま、運よく一冊目を上梓することができたけど、次回作に取り組むにあたり、20代のころの逃げ癖がひょこひょこと顔を出し、また「自分には才が足りないからほかの人と同じようにうまくやれない、やれなくてもいい」と逃げそうになっている。
だけど、20代のときにさんざん逃げてあきらめかけてきたそのループの経験があるので、はっきりわかっていることがあって。
それは、どんなに夢から逃げても逃げても、私は「小説を自在に描けるようになりたい」という想いから逃げられなかったこと。
何度リセットしたつもりでも、何度でも「文章を書きたい」という同じ道に出るってことが、わかってしまっている。
だから、今必死で次回作に取り組まないといけないし、プロットを書こうとしている。
逃げてもあきらめても同じ道に出てしまうとしたら、そうやって逃げたりあきらめたりしてしまう回り道は無駄な時間なのだ。
私がプロとして商業作品を出せたのは、本当に偶然と運が重なったことで、本来ならこんなに逃げてきた私には、なにかひとつ違えば手にできなかった僥倖だ。
「才能がないから」という言葉の自己納得力ってすごくって、ぜんぶそれを言い訳にして「才能」というなにかすごいもののあるなしにすべてひっかぶせて「私が夢を叶えられなかったのは私のせいじゃありません」感を出せる。
でも、どんなに「才能がないから」という言葉を繰り返し自分に言い聞かせても、私には「小説を書けるようになりたい」という想いのほうが勝っていた。
いろんなことから逃げてきたので、逃げた先のほっとする甘い安心感と、努力をたゆみなく続ける難しさを知ってる。
「小説を書くのが楽しくて仕方ない人に生まれたかった」と思うことは、いまでも多い。
でも、書くことにどちゃくそ苦労してきたからこそ、1冊目を商業出版できたことの感動は、何ものにも替えがたいものがあった。
書けない言い訳をしてしまうことはいまでも多い。
でも、そんな自分から少しずつ変わっていきたいと思っている。
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