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【連載小説】梅の湯となりの小町さん 7話

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ふっと目が覚めて、枕元のスマホを見たら朝の六時だった。私にしてはだいぶ早起きだ。とたん、昨日の失態――名村家の小皿を割ったことを思い出し、私はそろそろと隣の布団の花恵さんを起こさないように着替えると、台所に向かった。

予想通り、何かをまな板で刻んでいる佳代さんの姿を認めると、私はおそるおそる声をかけた。

「お、おはようございます!昨日、すみません、小皿……」
「ああ、書置き見たよ」

佳代さんはこちらを振り向かず、お玉を鍋に差し入れてかきまわしている。かみなりを落とされても仕方ない、そう思って身をすくめていると、佳代さんがコンロの火を止め、こちらに向き直った。

「ま、皿は使えば割れるものだし」
「え、あ、は……い」

割れるものだし、ということは、許してくれているのだろうか。佳代さんの言葉の意図がわからず、背後につったったまままごまごしていると「朝ごはん、食べる?」と聞かれたので大きくうなずいた。

佳代さんはダイニングテーブルに、自分の分と私の分の朝食を手早く並べてくれる。ごはんに、豆腐とねぎのお味噌汁、納豆、焼いた魚、レタスときゅうりとトマトのサラダ。

座ることをうながされたので椅子にかけ、そのまま二人で「いただきます」と手を合わせて食べる流れになった。佳代さんに「小皿の弁償を」と言いたかったが、花恵さんの「名村家は食事中はしゃべらない」ルールを覚えていたので思いとどまる。

食事が済んでから、やっとのことで「割った小皿、代金払うか、代わりのを買ってきます」と佳代さんに伝えると、彼女は「ええ?」と眉根を寄せた。

「さっき言ったでしょ。皿は割れるもの。かたちあるものはみんな壊れるんだから、いちいち気にしてたらしかたがないよ。本当に、紘加ちゃんは小心者なんだねえ」

ぐさりと言われて、身の置き所もない。「はは……」と情けない笑いをもらしていると、佳代さんが「そうだ」と箸を置いた。

「もしも、そんなに申し訳なく思うなら、銭湯の掃除、手伝ってくれない? 大学始まるまででいいから。それで、相殺ってことにしましょ」

「は、はい! やらせていただきます!」

佳代さんの提案に、ほっとする。何か自分でもやれることがあるのはよかった。ただ飯食らいと思われなくて済む、と思うだけで、安心した。

銭湯は毎日午後二時から開けるそうなので、午前九時から午前十一時のあいだに、だいたい清掃をしてお湯を入れ替えているそうだ。

お皿のことをとがめられなかったこと、そして自分の仕事ができたことにほっとして、私はその日の掃除時間までを、花恵さんが出て行った部屋(もちろん二畳分しか使わない)で、本を読んだりして過ごすことができた。ひさしぶりに、罪悪感の少ない、ほっとできる時間だった。

――しかし、このあと私は、慣れない清掃作業に四苦八苦することになるのである。

「はい、紘加ちゃん、ここにある桶と椅子、ぜんぶ洗ってね! シャンプーやボディーソープでぬめりがついてると思うから、それもぴっかぴかに磨いてみて」

「は、はい~!!!」

開店前の梅の湯の、女湯フロアにて。湯を抜いた浴槽の清掃を佳代さんが担当すると言い、私には風呂桶と椅子を洗う作業を割り当ててくれた。けれど、この作業がなかなか一筋縄ではいかないのだった。

小さい銭湯だと思ったけれど、桶と椅子の数は予想以上に個数があり、佳代さんがお手本で見せてくれた洗い方に比べ、私はとにかく、手が遅いしぬめりが最後までとれない。丁寧にやっていると、どんどん時間がなくなってしまう。

私がもたもたしている間に、佳代さんは浴槽の清掃を終え、床をブラシで磨き始めた。ガシガシと床をこする姿がさまになっていて、しかも佳代さんが掃除をしたあとは、まったくぬめりがないのだった。

「紘加ちゃん、いつまでやってるの! まだまだ、脱衣所のほうもあるから、急いで」

「はい! すみません!!!」

脱衣所や、待合休憩所のほうの清掃を終えるころには、私は息もろくにつけないほどへとへとになっていた。

そんな私に、佳代さんが「飲んでいいよ」とコーヒー牛乳の瓶をくれる。

「まったく、お役に立てず……」

私があえぐ息の下からそうもらすと、佳代さんは「はー!」と腰に手をあてた。

「こんなに役に立たないアルバイトの子も、そういないよ」
「うっ」

心底呆れられたのがわかる。私は、部活は体育会系のノリが苦手でボランティア部だったし、家事はお母さんにまかせっきりで、自宅のお風呂掃除さえ、あまりしたことがなかった。そう言い訳すると、佳代さんは恐ろしいひとことを放った。

「紘加ちゃん。社会に出たらね、仕事ができない子は居場所がなくなってしまうんだよ。だからね、自分の得意なことをわかっておいて、そういう仕事につけるように、学生のうちから頑張ったほうがいい」

「はい……」

しおしおと、アドバイスにうなずく。おそらく、佳代さんの話は誇張でもなんでもないのだろうと、分かった。甘ったるいコーヒー牛乳で喉をうるおしたあと、聞いてみる。

「梅の湯は、二朗叔父さんと佳代さんのお二人でされているんですか? その、征一さんや花恵さんも手伝ったりとか」

「ああ、それはない」

一刀両断、とでもいうような言い方を佳代さんはして、掃除用具をしまいながら続けた。

「征一も、花恵も、銭湯みたいな古臭い仕事にはまったく興味ないんだよね。昌太はたまに手伝ってくれるけど、あの子も将来やりたいことがあるみたいだし。おそらく、私たちの代でたたむことになると思うよ」

「そうなんですか」

佳代さんの言葉は投げやりだったが、同時に残念そうに言っているようにも思えた。でも、征一さんと花恵さんの人となりを多少知っている身としても、あの二人が銭湯に興味があるとは思いにくかった。そして昌太くんのやりたいことも気になったが、今佳代さんに聞くことではないように思えた。

梅の湯の開店準備をほぼほぼ終えて、平屋の住まいのほうに二人で戻って来たとたん、ぐう、とお腹が鳴った。あまりに大きな音だったので、しっかり佳代さんにも聞こえてしまっていた。

「いい腹時計だねえ」

「お、恐れ入ります……」

正直、恥ずかしさに声も出ない。佳代さんは、

「私はこれから、開店までに買い物行ってくるよ。冷蔵庫に、そばとうどんの乾麺があるから、どっちでも茹でて食べな。ここ数日で、よくわかったよ。紘加ちゃんが、ずいぶんな箱入りお嬢さまなんだってね。だから、なんでもこっちでやってあげるよりは、自分でできることをひとつでも増やすのがいいね」

と言うと、家の前に停めてあった自家用車で、外出してしまった。残された私は、名村家の台所で鍋に湯を沸かし、おっかなびっくり蕎麦を茹で――そしてしっかり噴きこぼした。佳代さんの言葉を思い浮かべながら「もっと、しっかりしなくてはならない」とおおいに反省するしかなかった。

花恵さんのいない部屋に戻ってみたが、夜になるまでまだまだ時間がある。母に電話しようにも、母自身もいまはパートの仕事に行っていて家にいないだろう。そこで私はひらめいた。先日、昌太くんに教えてもらった道を駅まで歩いてみて、そしてできたらもうすぐ通うことになる大学まで、行ってみよう。

これから、どのみちずっと一人で、東京で学生生活を送らなければならないのだ。昌太くんは親切だけど、あまり彼の手をわずらわせてはいけない。彼にまでうざったく思われてしまえば、本当にこの家にいられなくなる。

(自分でできることをひとつでも増やすのがいいね)

さっき、佳代さんに言われた言葉を再度噛みしめる。がんばるんだぞ、紘加。私は自分自身を奮い立たせながら、少し緊張気味に外に出かける用意を始めた。

この数日で痛い目に遭いながらも学んだ。家の外に出たら、自分の居場所は自分自身で確保しないといけないってこと。

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