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お別れの春に

大人になってする恋は、あのころよりは、せめて恰好つけられる。三月下旬、社の送別会が開催された駅近のタワーホテル内のレストランで、私はいろんな人に送別の挨拶をしながら、ビールをついで回りながら、視界の隅でちらちらあなたをとらえていた。

入社して数年が過ぎ、私はこの四月から、博多支社に転勤となった。そろそろ、東京本社を離れる時期だと思っていた。私は結婚しているわけではないし、きっと地方に飛ばしやすかったのだ。新しいプロジェクトの参加メンバーとして抜擢されたのは素直に嬉しかったし、食べ物がおいしいらしい博多という町への期待もあった。でも、それでも、やっぱり、この数年同じ課で、一緒に仕事をしてきたあなたと、毎日会えなくなるのはとてもつらかった。

「佐伯さんが博多に行っちゃうの、私すっごく寂しいですー」

自席に戻ってきて、一息ついていると、だいぶ酔っぱらっているらしい、後輩の女子が、顔を上気させて挨拶しに来る。この子が私に言うくらい、直球でそんなことを言えたのなら良かった、と一瞬思ったが、私はもう、あの頃と同じ轍は踏みたくなかった。寂しさのあまり、自分をコントロールできなくなって、相手に気持ちをぶつけた結果、背中を向けられるような幼い恋は、十八、十九の頃だけでもう十分だ。いまでもその頃の思い出は、苦く胸のうちでわだかまっている。

「神田さんも、東京でがんばってね。いろいろ引き継いじゃってごめんね」

「いいんですー、それよりもっとワイン飲んでくださいっ」

そう言いながら、彼女は手に持っていた赤ワインのボトルから、私の目の前のグラスにどぼどぼ注ぎ始めたので苦笑してしまう。今日は飲みすぎないと決めている。そうじゃないと、あなたの前で、たがを外して、何かあらぬことを口走ってしまうかもしれない。それはとっても、怖かった。

食べかけで皿に残っていたスズキのグリルと野菜をつついていると、しぜんと記憶が、大学時代の痛い恋の思い出をたどってしまう。あんなにつらかったことを、思い出したくないのに、あのときの別れも春だったから、あの頃の記憶をつい重ねてしまう。

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上京したての大学一年生の春、桜の花びらが散るキャンパス内で、私はほんものの恋をした。初恋だった。慣れない大学生活で、右も左もわからなかった私に、いろいろなことを教えてくれた、美術サークルの先輩。名を矢本さんといった。親しみやすい笑顔の彼は、やもさん、やもさんと後輩たちから慕われ、誰にでも面倒見が良かった。

「ほらー、佐伯。ちゃんと飯食わないとだめだろー」

「佐伯―、風邪ひいたんか? 冷えピタ買ってきてやるよ」

「佐伯って、話しやすいな。こんどおすすめのCD貸して」

こんなに人を好きになったことはない、というほど私は矢本さんが大好きになり、本当に目には彼しか入らなくなった。しぜんと体重は落ち、いつも胸がいっぱいで、眠りはたいてい浅くなった。ほどなく、矢本さんには彼女がいることを私は風の噂で知った。体重はさらに落ちたが、私は一生分の勇気を振り絞って告白した。矢本さんはいつもの優しい笑顔で、

「ごめんな、佐伯」

と目じりを下げた。泣いて泣いて、体じゅうの水分がぜんぶなくなってしまうかと思った。それでもあきらめきれなくて、私は大学生活の間、あと二回告白を重ねた。自分がストーカーみたいだと理性では思っても、感情は止められなかった。告白の結果は同じだった。矢本さんは、私が三年生に上がる春大学を卒業して、かねてからつきあっていた彼女と入籍した。入籍の報告を聞いたと同時に、私の中の何かが壊れてしまい、好きでもない男たちと、何かを振り切るようにキスしたりした。その頃から、私には心療内科の薬が手放せなくなった。

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ふっと顔を上げると、最後のデザートが運ばれてくる時間だった。一瞬、くらりとめまいがした。過去の時間にいつしか自分が引き戻されていたことに気が付き、苦笑する。あの頃は、もう十年も前だというのに。そして、今は、もう三十も手前だというのに。

デザートのプディングを金色のスプーンで口に運び、アールグレイのジェラートを口にし、ぼんやりとしながら私はまた考えた。

あのどん底の失恋の後、私はふたたび人を好きになることができなかった。でも、二十代半ばでこの会社に転職し、あなたに出会うまでは。

もうあのころと同じ、痛い目には二度と合うまい。そう思っていた私なので、あなたとは日常会話以外のことは何もしていない。デートも誘わなかったし、メールも交換しなかった。ただ、廊下ですれ違うとき、会議で発言するとき、まるで老人が小さな赤ちゃんを見るときのような目で見ていただけだった。この人、いいなあ、と。

それだけでも、あなたがこの課にいて、ときどき背を折って笑うのを見たり、髪に寝ぐせがついているのを見ているだけで、私は、だんだん昔の古傷が癒えていくのを感じていた。誰かをまた、好きになったというその事実は、その恋を壊さないように大切にしているからこそ、私のぼろぼろだった心に水を注いで、またふっくらとふくらませてくれたのだった。本当に、本当に、あなたには感謝しかない。と、ふと私の手元が少し陰った。

「佐伯さん」

ふとバリトンの声が耳の近くでして、私はゆっくり顔を上げた。私の椅子のすぐそばに、あなたが思いがけず膝を折って立っていた。まったく予想もしていなかったので、私は思わず、椅子から飛び上がりそうになった。

「博多支社に行かれるとのこと、がんばってください。たくさんお世話になりました」

思いがけない言葉に、私は思わず、涙が出そうになった。

「こ……こちらこそ、お世話になりました」

ああ、だめだ、気の利いた言葉が全然出てこない。

「僕、博多住んでたことあるんですよ」

「え?」

「学生時代に。九州が出身なんで。いいところですよ。博多ラーメンと明太子は、ぜったい食べてくださいね」

「あ……はい。か、観光はどこに行ったら」

「うーん、大宰府天満宮とかかな。菅原道真公が祀ってあります」

何か。もっと。何を話せばいい。私がうろたえているうちに、幹事の人が司会席から、

「えー、皆さま、宴もたけなわではありますが、そろそろ閉会の時間となりました」

とお開きの挨拶をしはじめ、あなたは「じゃ」と笑って自席に戻ってしまった。

覚えている限り、あなたのほうから話しかけてくれたのは、この数年間で数度しかなかった。でも、今日、私がいなくなる今日、挨拶に来てくれた。

胸のうちに、ぽっと灯がともった気がした。気持ちがはやる。思いが波立つ。ああ、今度の恋は、きれいに幕引きをしよう、そう思っていたのに、なんていまの私、格好悪いんだろう。でも今は、こうしたじたばたする気持ちさえ、なんだか久しぶりで、ちょっとくすぐったい。

博多に着いたら、あなたの言う通り、ラーメンと明太子を食べよう。大宰府天満宮にも、お参りしよう。ふたりをつなぐ、かすかな糸が、いま見えた気がした。

(これからだって、同じ会社の同僚だし、二度と会えなくなるわけじゃないし)

送別会が終わって、クロークからコートとバッグを引き取りながら、私はぐるりとあたりを見回した。帰ってしまったのか、あなたの姿はもうなかった。

タワーホテルを出て、東京の春の夜風に吹かれながら、私は心の中で、そっとつぶやく。

好きにならせてくれて、ありがとう。また、いつか。

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