3.11の日に
今日は東日本大震災があってから9年目だ。いままで、noteにこの震災のことを書こうと思ったことはなかった。
当時私は金沢市に住んでいて、直接の被害はなかったし、実際にどんなことがあったかをテレビやネット記事でしか知らないのに、うかつに書いてしまうことがどうしてもできなかった。
ただ、この一連の災害を同国内にいた人間として、風化させないように、私なりに今思っていることを書くことにする。
東日本大震災当日、その朝はひどく寒かったことを覚えている。頬を鋭利な刃物で切られるように寒いな、と朝感じていたことを鮮明に覚えている。
そして、地震があった瞬間は、金沢にいてもわかったのだ。私は当時、教材の訪問販売会社でパートをしていて、営業さんが回る地図に色塗りなどをしていた。
そして、14時46分。私のいた上階(7階くらいだったように思う)のビルが「ゴッ」だか「グラッ」だか、一瞬衝撃とともに揺れた。
「いまの、何?」と私は、一人きりでいたパートの部屋から飛び出して、営業さんたちの顔を見回した。所長がしばらくして「東北で地震があったみたいだ」と教えてくれた。
その日は16時まで勤務し、家に帰ってネットニュースを見て、大変なことが起きたのを知った。
津波、そしてそれに伴う原発事故。黒い水が家を飲み込んでいく様や、原発建屋が壊れている様子がテレビに映し出されて、ショックを受けた。
しばらくして、赤十字社が募金をつのりはじめたころ、なけなしのお給料から、3万円、コンビニで募金した。(当時の私は病み上がりでパートに勤めていたので、月々のお給料は5万円くらいだったけど、そこから)
当時の記憶を思い出そうとしても、このくらいしか思い出せなくて情けない。日記をつけておくべきだった。
たくさんの人が津波で亡くなった。そのことを、理解して咀嚼しようとしても、上手くできなかった。
家族やご友人を失った方のご心痛はいかばかりか、想像してあまりある。
それから、日本各地で地震があいつぎ、私はその年の5月末で、パートをやめた。何も被害に遭っていなかったけど、気持ちがすごく不安定になってしまって、続けられなくなったのだ。
2013年4月にまた別の仕事に就くまで、私は再び無職として、家で家事ばかりしていた。
2018年に、夫と東北を旅行した。仙台、花巻、蔵王、松島、石巻、平泉などを回ったが、陸前高田にも行った。
津波に襲われた陸前高田の海岸付近をレンタカーで回った。海岸は土ぼこりが舞い、だだっぴろくて、工事をいたるところでしていた。
奇跡の一本松(津波に耐えて一本だけ残った松の木で、いまは海水のダメージで枯死しているが、モニュメントとして残してある)を見て、少しだけ涙が出た。
海は凪いでいた。
言葉にしたくても、上手く言葉に表せないことがあるのだと、身に沁みて知った。
いまでも、当時の痛みを残したまま、東北で人が生きている。
震災は、終わっていない。
私たち一人一人が、風化させないと思うことも大切だ。
そのためにできること、また探していきたい。
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