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【小説】2020年に夢に飛ぶ

踏み切って飛んだ瞬間、めちゃくちゃに心が熱かった。

小学生の頃、私、二宮有紀は走り幅跳びがとても得意だった。助走をつけて、踏み切って、飛ぶ。私が小学生にしては、ぐんぐん記録を伸ばすので、当時の担任、松山先生は日に焼けた顔で笑って言ったものだった。


「二宮ァ! お前、もしかしたらオリンピック行けるかもしれんぞ」

だから私の夢は「オリンピック選手になること」と六年生の私は無邪気に信じた。小学校、中学校と陸上チームに入って、数えきれないくらい、走り幅跳びを飛んだ。


友達とも遊ばず、黙々と、コーチと一緒に、陸上仲間と一緒に、つねにグラウンドにいた。記録は伸びていき、だいたい県内の同年代女子のトップ5には入っていた。


だけど、中学三年生の夏、出場した試合で、私は怪我をした。踏み切って飛び、砂に降りた瞬間、激痛が走った。――じん帯を傷めたのだった。


しばらく試合には出られなくなり、怪我が治ったあとも、もとの記録が出せなくなった。私はだんだん、伸びない記録にイライラし始めた。チームの子に、どんどん追い抜かれていき、焦りばかりが募った。


その結果、高校生になって私は、陸上を辞めることを決意した。
「有紀―、今日さぁ、遊び行こうよ」

新しくできたクラスメイトと、繁華街に出向いていって遊びまくった。カラオケに、ゲーセンに、遊園地に。彼氏をつくって、ダブルデートに行ったりもした。ようするに、はめがはずれたのだった。髪を金髪にした時期もあった。

親は「真面目にがんばっていたあなたがどうして」と泣いたが「オリンピックに行きたい」という自分の無邪気で甘い夢を、一方的に手放してしまった私が、次の替わりの夢を見つけられなくて苦しいことまではわかってもらえなかった。


「んだよ。うっせー。ほっとけよ」

言葉遣いも荒くなった。反抗期だったのだ。じん帯の損傷を乗り越えて、選手として活躍してる人はいっぱいいるのに、そうなれなかった私はダメだ。そんな思いがヘドロのように心にこびりついて、どうやっても消えなかった。

私は高校を卒業すると「大学だけは出て」という親のたってのたのみで、とりあえず受かった地元の大学の経済学部に入った。経済に興味はなかったけど、就職が堅いと思ったし、仕事について早く家を離れたかった。

桜の時期、入ったばかりの大学キャンパスで、ぶらぶら歩いていると、グラウンドに出てしまった。春のあたたかい日差しの中、陸上サークルだろうか、陸上チームだろうか、ハードル競技を練習している。とたん、胸が苦しくなった。子どもの頃のあの陸上に夢中になっていた熱い日々を思い出して、もう戻れない、と思った。

それでも、その場を私は離れることができなくて、じいっと見ていたら、突然肩を叩かれた。


「陸上に興味あるの?」

そこには、さらさらの髪をした、ベビーフェイスの男子大学生がえくぼをつくって立っていた。


「あの、私、その」


口ごもった私に、その男子大学生は言った。


「いまサークル勧誘の時期だから、気軽に僕たちのとこ、見に来てよ」


「私、昔足を傷めたから、もう走らないことに決めてるんです」

男子大学生は目をまるくすると、私に運命的な一言を告げた。

「経験者、大歓迎だよ。マネージャーはどう? 僕、倉間といいます。チラシあげるよ」

そのとき、うかうかと彼について見学に行ったのは、倉間先輩がはっきりいって好みのタイプだったからに違いないけど、それでも、マネージャーとして陸上にまた関わることができたのは、彼のおかげだった。それが、この先の私を決定づけたのだから。

私はその翌日から、マネージャーとしてR大学の陸上部に所属することになった。記録をとったり、スポーツドリンクを用意して配ったり、小学校中学校と自分が実際にチームに所属して小さいころから活動してきたから、こんなときにどうすればいい、というのはわりとすぐに飲み込み、私はメンバーから重宝された。


慣れないキャンパスで、いるべき居場所が見つかった私は、部室に入り浸り、先輩マネージャーからテーピングの仕方や遠征バスの申し込みの方法などいろんなことを教わった。

もう一つ、私が役にたてたもの、それは料理だった。実家でも小さい頃からよく台所に立っていたせいもあって、私は料理が得意だった。

だから陸上部員たちに、おにぎりをたくさん握って持って行ったり、はちみつレモンを差し入れしたりしているうちに、どんどんそれが楽しくなった。

先輩マネージャーは言った。


「有紀さぁ、あんた本当に、このマネージャー業向いてるよ。あのね、スポーツ専門の栄養士っていう資格があるみたいだよ。あんた、それ向いてそう」

先輩は慧眼だった。私は家でインターネットで調べてみると「スポーツ公認栄養士」という資格がたしかにあることを知った。


資格合格の条件として「管理栄養士であること」「公認スポーツ栄養士養成講習会を受講しようとする年度の4月1日時点で満22歳以上であること」「スポーツ栄養指導の経験があること、またはその予定があること」などがあった。


私は考えに考え、その資格を取りたいと思った。ダブルスクールをはじめ考えたが、無理なことがわかった。私は大学を中退し、管理栄養士の資格を取れる大学に入り直した。R大の陸上部メンバーは、身勝手な私を、快く応援してくれた。マネージャー業を離れることは寂しかったが、私はまた新しい夢を見つけた。そのことが何よりも嬉しかった。

そして、今の私はといえば。大阪に住み、企業の「スポーツ栄養事業部」に所属するいち管理栄養士として、いろいろな仕事に関わらせてもらっている。

いま、会社の業務として関わっているのは、府内のサッカーユースチームの寮の食事の管理をすることだ。献立、栄養バランス、アスリートの身体をつくるために、さまざまなことを考慮しながら、とりくんでいる。


2020、今年のオリンピックを控えて、小さい頃の夢を思い出す。


「オリンピック選手になりたい」――という。その夢はかなわなかったけど、私は今、新しい夢を見てる。


スポーツに取り組む、今日のあなたがすこやかでありますように。
あなたの今日の食事が、明日の身体をつくってくれますように。

さあ、忘れられない夏になりそうだ。

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