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【短編】のこされたもの

取り壊しの決まった祖父の家に、早季子は自分の車に乗ってひとりでやってきた。祖母がさきに他界したあと、五年も一人暮らしを続けてきた祖父が、この春に亡くなり、誰も住むもののいない古ぼけた一軒家は、親戚一同で協議した末、つぶしてしまうことになったのだ。

早季子は30歳の誕生日を迎えたばかりだったが、去年看護師の仕事をストレスから休職して、両親の住むマンションに居候していたところだった。祖父の遺品を片づけてほしいと両親から頼まれたので、手がすいている早季子が、こうやって最期を迎える家の整理をしに来たのだった。

山を背後に背負った祖父の家は、三月といえどもまだ寒く、ストーブに入れる灯油を車で運んで正解だった。まず最初に廊下を雑巾で拭いたが、ひどく指先がかじかんだ。畳にうっすら積もった埃は、掃除機で吸い取った。

書斎に入ると、壁を埋める本棚には祖父が生前集めた蔵書がきっちりと並んでいた。これらの本をどうしよう、と考えて早季子は結局、電話一本で古本屋に片づけてもらう手続きをした。読書に目がない弟の祐二なら、ほしがるかもしれないと思ったが、祐二は今会社の仕事でシンガポールに住んでいる。この家を壊してしまうまでに帰ってくるのはたぶん無理だろう。

蔵書を何冊も重ねて積んで、十字にひもをかけてしまうと、小腹がすいてきた。朝マンションを出るときにロールパンを食べたきりだったことに気がついて、早季子は台所に入ると戸棚を物色しはじめた。乾麺のうどんやそばの買い置きなど残っていないかと思ったのだ。祖父はかけうどんやかけそばが好きだった。ネギをたっぷりのせて、一味をたくさん振っていつもすすっていたものだ。

食器棚の下の引き戸を開けた早季子は、ふと中にある大きなガラス瓶に目をとめた。重たい瓶をとりだして、しげしげと見てみる。少し揺すってもみた。琥珀色の液体の中に、いくつもの小さい丸い果実が沈んでいる。

「梅酒だ」

ひとりごとを言ってから、早季子は瓶を抱えて、銀のシンク台の上に乗せた。ガラス瓶には日付が書いてあった。昨年の、六月十二日。祖父が去年漬けたものらしかった。ほとんど瓶いっぱいに残っている。少しは飲んだのだろうか。

棚の隅から見つけたうどんを茹でて食べ、すみずみまで祖父の家を掃き清めたあと、早季子は結局、自分のマーチに見つけた梅酒の瓶だけを載せて、両親の待つマンションへと運転して帰ってきた。車を停めて、瓶を抱えて玄関へ入ると、母がエプロンをかけたまま出てきた。

「早季ちゃん、お疲れ様。ごはんできてるよ」

くたびれて声も出ない早季子が、無言で梅酒の瓶を母に渡すと、母は「あらあらまあ」と言って受け取った。祖父のことを一番よく知っているのが母のはずだった。なにしろ、実の娘なのだから。

「この梅酒ねえ、懐かしいわ。おばあちゃんが毎年漬けていたけど、亡くなってからはおじいちゃんが漬けていたのね」

「そんなこと知らない」

早季子が口をとがらせると、母は仕方なさそうに微笑んだ。

「あなたは高校出てから、看護学校入って、ずっと仕事仕事だったでしょう。おじいちゃんちもろくに行ってなかったし。さあさあまずごはんにしましょう」

母が用意した食卓につき、箸をとって鶏肉と大根の煮物を口に含むと、母は続きを語り出した。

「おばあちゃんはひと山越えた向こうからおじいちゃんの家に嫁いだでしょう。だからおばちゃんの実家から、毎年梅雨の時期になると梅がたくさん届くのよ。おばあちゃんの家は果物の農家でね。梅もたくさん出荷してたの。そのおすそわけ。おばあちゃんの家の人は、亡くなったあとにも、梅をおじいちゃんに贈っていたのね」

ほろほろと口の中でくずれる煮物を食べながら、私はそのひと山向こうとやらのおばあちゃんの実家を思い浮かべてみた。もちろん私は、行ったことなどないので知らない。でも、できるかぎり思い浮かべてみた。たくさんの梅の木と、それをもぐ人たちと、おじいちゃんへと贈っていた人たちの気持ちを。

「……おいしいのかな、その梅酒」

 ぽつりとつぶやくと、母が笑った。

「お父さんが帰ってきたら、飲んでみましょう」

私があらかた夕飯をすませた頃、会社で役員をしている父が帰ってきて、梅酒の瓶に目をとめて「お」と言った。母が説明をとうとうとすると、父も納得した顔で「飲んでみようか」と言った。

小ぶりなグラスに、ちょっぴりずつ注いで、私たちは食事のあとその梅酒を飲んでみた。鼻に良い香りがぬけていって、祖父の顔を思い出した。

新聞を顔の前で広げた父が、紙面から顔を上げないまま言った。

「早季子、いまきっと、おばあちゃんの実家で梅が見頃だぞ。行ってみたらどうだ」

電車の窓からは、枯れ草色の風景がどこまでも続いている。早季子はひざの上に幕の内弁当を広げて、ときどき箸をつけながら車窓からの流れる景色を見ている。早季子の両親のマンションのある中規模の駅から、電車を乗り継いで、一時間半。足元にあたたかい空気がたまり、眠気を誘う。うつらうつら夢を見ながら、やっと目的の駅までたどりついて改札を出ると、白い軽トラックにクラクションを鳴らされた。運転席から、若い男性が手を振った。

「村田早季子さんですかー?」

ゆっくりと間延びした声に、おずおずとうなずくと、青年は、

「来ること聞いてました。だから迎えに」

と笑った。

「あ、もしかしておばあちゃんの…篠田の家の方ですか?」

「そうでーす。早季子さんのお母さんから連絡来てたんで。さあ乗って」

早季子が助手席に乗り込んでドアを閉めると、軽トラックはすべるように発進した。

「あのう、お名前をうかがってもいいですか」

「僕は篠田大和です。早季子さんのお母さんと、僕の母がいとこ同士になるんで、一応僕たちもまたいとこになるんだけど」

「あ、そうだったんですか!何も知らなくてすみません」

早季子が恐縮すると大和は前を見たまま言った。

「いえ、僕たちだって、篠田の家から村田の家に嫁入りしたおばあちゃんに、こんなご家族がいたなんてよく知らなかったんですから。ただ、おばあちゃんとおじいちゃんには毎年山菜なんかをいただいて、お世話になってたんでこちらでも梅を送ってたというだけなんですよ」

「おじいちゃんは、いただいた梅を梅酒にしていたみたいで。私が遺品を整理するときに持ってきたんですけど、とてもおいしかったです」

「うちは農家だから、本当に収穫時期はたくさん梅がとれるんで、それこそ梅酒だけじゃなく、梅ジュースやらシロップやらジャムなんかにもするんですよ」

「えっ、おいしそう!」

思わず早季子が声を上げると、大和は笑って言った。

「今年からは、村田さんちに梅を送りますよ」

梅園に着くと、早季子と大和はトラックを降りて、すがすがしい良く晴れた日の空気をいっぱいに吸い込んだ。大地に、たくさんの梅の木が根をはって、白い花をつけているのを見ると、早季子はなぜかしみじみとぬくもった気持ちになった。

「ほんとにきれい」

「この梅がまた、六月になると、いっぱい実をつけるんですよ」

「その様子も見たいなあ」

「早季子さんも来ればいいんだ。収穫には人手がいるし、大歓迎ですよ」

「大和さん、は」少し言い淀んでから早季子は聞いた。

「ずっとおうちを継いで農家をされてたんですか?」

「いえ、僕は実家の家業なんか継いでやるもんかーって家を出て、東京に行って、会社員をしてたんですけど、父が倒れて、仕方なしにこっちに来たら、空気はきれいだし食べ物は美味いしで、ついつい居ついちゃったんですよ。今でははりきって農業やってますよ」

「私は、学生時代からずっと看護師になりたくて、看護学校を出てからずっと続けてきたんですけど、責任者としてまかされるようになってから仕事がだんだんきつくなってきちゃって。眠れなかったり食べられなかったりするようになってしまったので、昨年から仕事を休んでからひきこもってたんですけど、たまたま祖父が病気になったんで入院の付き添いとかをし始めたんですけど、すぐに亡くなってしまって。私、学校行ってたときも、働いてたときも、ずっと祖父の顔、ゆっくり見てなかったなあって。もっと会いに行ってたらよかったなあって」

 早季子は少しずつ喋ると、空を見上げた。

「祖父の漬けた梅酒を飲んだら、いろいろ思いだしてきて、祖父はこれを遺してくれたんだなあって胸にしみいるように感じたんです。そして、今日ここまで来て梅の花を見たら、祖母のことも思い出して。これから、梅酒飲んだり、梅の花を見たりするたび、きっと思い出すんだろうな」

三月の空は薄青く透き通っていて、春浅い日差しが早季子と大和に降り注いでいた。

「もうすぐ祖父の家を取り壊すんです。その前にもう一度、見に行こうと、思いました。この梅の花を見たら」

「それがいいと思いますよ」

大和はそう言って、春の空に向けてうーんと背伸びをした。

翌週の日曜日、早季子はカメラを持参してふたたび祖父の一軒家に来ていた。家の中はしんと落ち着いていて、一週間前早季子が片づけたままにきちんとしたたたずまいを見せていた。早季子は順番に、玄関の前、廊下、書斎、台所と、数枚ずつカメラで写真を撮っていった。祖父の気配。祖母の息遣い。そういうものが、見えなくても映り込んでいるような気がした。

最後に奥座敷の障子を開けて、縁側に出ると、苔むした緑の庭が、春の息吹とともに眼前に広がった。庭をゆっくりと見回した早季子は、くつぬぎ石のすぐ横に、小さな鉢が置いてあるのに気がついた。そしてそこに植えられていたのは、小さな梅の若木だった。大和のところで見た梅と、まったく同じ品種だとすぐにわかった。

早季子はそうっと鉢を持ち上げて、胸の奥で「これがさいごののこされたもの」とつぶやいた。

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