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【児童文学】忘れちゃいけないお弁当

コンコン、と遠慮がちに、僕は父さんの仕事部屋のドアをノックした。返事がないので、開けてみると、父さんはパソコンとにらめっこ。うー、とか、あー、とか言いながら、頭をかきむしっている。僕は父さんの背後に立つと、その後ろからパソコン画面をのぞきこんだ。白く光るディスプレイには、書きかけのデジタル漫画が見えた。


そう、僕の父さんは、漫画家だ。そうして、小学五年生の僕を育てている。母さんは、二年前病気で亡くなった。以来、僕は漫画家の父さんと二人暮らしだ。

父さんは、わりと有名な漫画雑誌に三本、四コマの連載を持っていて、なんとか二人で暮らせるほどの原稿料はもらっているらしい。でも、家にいるときはだいたい、僕にごはんをつくる以外は、自分の部屋にこもりっぱなしで、パソコンに向かって漫画を描いている。


「父さん、話があるんだけど」


僕は父さんの肩をゆすぶる。父さんが、のろのろと振り向いて、やっとのことで僕の顔に視線の焦点を合わせた。


「……なんだ、悠希。いま、やっと〆切間際にネタが浮かんだんだ。ちょっと集中して描かせてくれないか」

僕は「あのっ」と少し大きい声を出す。

「今月の二十六日に、親子遠足があるんだって。これ、プリント。お弁当もいるんだって。父さん、どうする? 二人でキケンする?」

キケン――棄権とは、テニスの試合をテレビで見ていて最近覚えた言葉だった。朝も夜もなく仕事する父さんに、遠足に一緒に行ってもらうことは無理かもなって思ったから、キケンするかと聞いてみた。

「おやこ、えんそく……」

父さんは、ぼんやりとしばらく視線を宙にさまよわせていたが、急に、大きな声を出した。

「行く、行くよ。そんなもん決まってるじゃないか、一緒に行こう」
「お弁当は?」
「父さんがつくるよ」

ほんとかなあ、約束守ってくれるかなあ、と僕はうたがわしく思ったけれど、父さんがそう言うのなら、と思って、プリントの出席表に「皆川 悠希」と名前を書いて、参加にマルをした。

プリント先生に出しとくよ、と父さんに声をかけると、父さんはもう心ここにあらずという感じで、再びパソコン画面に集中していて、僕には目もくれなかった。まあこういった父さんの態度はいつものことなので、僕はやれやれ、と思って、父さんの部屋から出てドアを閉めた。

僕の部屋で宿題をしていると、いつのまにか日はとっぷり暮れて、窓の外は真っ暗になっていた。台所から父さんの声が聞こえた。

「悠希――、メシの時間だぞ――」

今行く、と叫び返して、僕は台所へ向かう。廊下にはもうカレーの匂いが立ち込めていて、僕のお腹がクーッと鳴る。台所で、父さんはぐつぐつと煮えるカレー鍋をかき混ぜていた。今日はカレーかあ、と思いながら、僕はテーブル席につく。

父さんはいつも夕食を作ってくれるけど、そのパターンはほぼ5つだけだ。カレー、野菜炒め、鍋、豚の生姜焼き、オムレツ。これらの繰り返しを延々、僕は母さんがいなくなってから食べ続けている。どれも僕の好物だったし、せっかく作ってくれる父さんに、基本文句も不満もないのだけど、この5パターンしかつくれない父さんは、いったいどんなお弁当を遠足に持ってくるつもりだろう。

ふだんの昼ごはんは給食があるから、お弁当なんていらないのだけど、遠足のときだけは別だ。去年、四年生のときの親子遠足はたしか、母さんが亡くなって一年目の法事と重なっていたから、欠席したんだった、と僕は思い出す。今回はだから、父さんと僕の、はじめての二人での親子遠足になる。ほんとうに参加にマルで良かったのかなあ、そう思いながら、僕は父さんがよそってくれたカレーをひとさじ、口に運んだ。だが、食べるなり僕はむせた。

「辛い! 父さん、これすっごく辛いよ!」

あれ、と父さんは流しに捨ててあったパッケージを見る。

「ごめん! 悠希、これ、大辛だったよ。スーパーで買ったときは甘口を買ったつもりだったんだけど、ぼんやりしてて買い間違えたみたいだ。悪かった、悪かった」

平謝りをする父さんに、僕は「もうっ」とぷりぷりしながら、戸棚からふりかけを出してきて、カレーじゃなくてご飯をたくさん食べることにした。父さんは、何度も「ごめんな、悠希」と謝ってくれたから、僕は許してあげることにした。

翌日、小学校に行くと、クラスの中に人だかりができていた。なんだろう、と思って人をかきわけて、その中心にいるのが誰か見定めた。幸田つむぎという、眼鏡の大人しい女子で、みんなが何をそんなに注目しているかというと、彼女が描いているアニメのキャラクターだった。いま人気の魔法少女アニメで、幸田のイラストは本当に上手く、キャラクターを描写していた。

「ねー、私にもミオリを描いて!」
「じゃあ私は、サーヤを描いてほしい!」

幸田つむぎは、にこにこしながら、眼鏡の奥の目を細めて「いいよ、佐川さんにはミオリ、山原さんにはサーヤの絵を描くね」と言っている。

その様子を横目で見ていた、鶴橋直樹が、のぞきこむ俺に向かって言った。

「皆川も、父ちゃん漫画家だから、このくらい描けるんだろー」

僕はあわてて、顔の前で手を振る。

「馬鹿いうな、父さんは父さん、僕は僕だよ。僕は絵、幸田さんみたく上手くないし。だいたい図工の成績だって3で……」

そこまで言った僕の言葉をさえぎるようにして、幸田が声を上げた。

「皆川くんのお父さん、漫画家さんなの!?」

幸田をとりかこんでいた女子たちが笑う。

「えっ、悠希くんのパパが漫画家って、みんな知ってると思ってた。有名だし」


「そうか、つむぎちゃんは、三年生のとき転校してきたから、まだ知らなかったのね。あ、じゃあもしかしてお母さんのことも」


周りにいた女子の一人が、口をすべらせて、はっとなってつぐみ、教室内に一時緊張が走った。僕は、遠慮して誰も口を開かない沈黙を見ると、笑顔をつくった。

「そう、僕んち、母さん死んじゃって、いま漫画家の父さんと二人暮らしなんだよね」

幸田は「そうだったんだ」と口元を押さえて、でも、おそるおそるといった調子で、口を開いた。

「私、将来、漫画家になりたくて。皆川くんのお父さんに、会ってみたいな」

母の話から一転、また父の話題になったことに、教室内の空気がほっとゆるむのがわかった。

「いいんじゃね? 皆川の父ちゃん、ザ・漫画家って見た目だけど、結構気さくだし、おもしろいよ。幸田の漫画持ってって、見てもらえばいいじゃん」

鶴橋が、当人の僕より先に許可を出したので、僕は鶴橋の腹に軽くチョップした。

「なんでお前が先にOK出すんだよ。――まあいいや、幸田さん、うちに遊びにおいでよ」

幸田は「ありがとうっ!」と大声で言って目をきらきらさせた。

「つむぎちゃんの夢が叶うといいね」「またイラスト描いてね」

女子が口々にそう言っている間に、授業開始のチャイムが鳴り、僕たちはちりぢりになって自分の席に戻った。

家に帰ると、鍵がかかっていた。父さんは外出中のようだ。きっと、外で編集者の人と打ち合わせに行っているんだろう。僕は乱雑に散らかった居間を見て、ため息をつくと、いやいやながらも、片付けはじめることにした。

母さんが生きていた頃は、編集者の人も、うちまできて、母さんのいれたコーヒーを飲みながら、打ち合わせをしていった。でも、今はうちが散らかりすぎていて、父さんは編集者の人を自宅に呼びづらくなったらしい。でも実際、父さんは朝から夜までがんばって漫画を描いていて、家事に気を回す余裕がなかなかない。掃除をしてくれるホームヘルパーさんが、一応月2回来てくれているけど、こないだ来てくれてから、5日も経たないうちに、また散らかってしまった。

家に幸田つむぎを呼ぶなら、少しは片づけて綺麗にしておかないと、僕が恥ずかしい。そういう僕も、つい散らかしてしまうのだけど、今後は気を付けないといけない。

そう思いながら、僕は積み重なって床に落ちている漫画本を拾って本棚に片付け、ごみをまとめてゴミ袋につっこみ、掃除機をかけた。

こういうとき、母さんがまだ生きていてくれたらな、と思う。周りの大人の中には、小学生の子もいるんだし、新しい奥さんをもらえば、って父さんに勧める人もいるみたいだけど、その提案を頑として受け付けない父さんを、やっぱり誇りに思う。

僕にとっての母さんは、母さんだけだから。そう思いながら、部屋をガンガン片づけた。

母さんは、僕が二年生のときに脳腫瘍が見つかって、三年生の秋に亡くなった。父さんが売れない時期を、ずっと働いて支えていたから、父さんが苦労をかけすぎたんだと、父さんを責める大人がいっぱいいた。

でも、母さんと父さんは、最期の最期まで仲が良かったし、棺には母さんのたっての希望で、父さんが描いた僕ら三人の家族の肖像画を入れた。いつもふざけたキャラクターの丸っこい絵ばかり描いている父さんが、あんな美術館に飾ってあるような絵を描けるなんて、僕はそのときまで知らなかった。


居間と台所の片付けをひととおり終えて、テーブルに座って足をぶらぶらさせながらコーヒー牛乳を飲んでいると、カギの開く音がした。父さんが帰って来たのだ。父さんは居間に入って来ると「おお」と声を上げた。

「悠希が綺麗にしてくれたのかい?」
「うん。まあね。そうだ、父さんに会いたいっていう漫画家志望のクラスメイトの子がいるんだ。今度うちに呼んでもいい?」

「そのために片付けたのか」
「うん」
「女の子だろう」

「そうだけど、なんだよ。男でも女でも別にいいじゃんかよ」
「悠希も思春期だなあ」
「どういう意味さ」

父さんは鼻歌を歌いながら、冷蔵庫を開けると、牛乳をコップについで飲み干すと言った。

「その子に聞いといてくれ。漫画の道は、修羅の道だと。鬼になる覚悟があるのかと」
「なに漫画みたいな台詞言ってんのさ」
「それは父さんが漫画家だからだ」

幸田つむぎは、この素っ頓狂な父さんに、果たしてついていけるだろうか。心配になりながら、僕は、父さんのスケジュールを確認し、〆切明けの九月十三日に、幸田を家に呼び、父さんと引き合わせることを決めた。

その日の夕ご飯はオムレツだった。父さんのオムレツは、卵を三つもつかって、中に焼肉のたれで炒めたひき肉と玉ねぎが入っている。今日の味つけはとくに間違えていなかったので、僕は安心してごはんと一緒にモリモリ食べた。


そのとき、僕は思いついた。


「父さん、親子遠足のとき、ごはんとオムレツでいいよ。オムレツなら、お弁当箱のおかずの段に入るでしょ。僕、それでじゅうぶんだから」

僕の言葉を聞いた父さんは、目をぱちぱちさせている。

「親子、遠足?」

僕はため息をついた。すっかり忘れているみたいだ。

「だーかーらー、こないだ父さん約束してくれたでしょ! 今度、二十六日に、親子遠足があって、父さんお弁当をつくってくれるって約束してたじゃんか!」

父さんは気を取り直したように、はっとして言った。

「そうか、そういう約束もしてたよな、毎日がバタバタで忘れていたよ、まいったな、ごめん、悠希」
「もーっ」

僕は腹を立てる一方で、ちょっと悲しくなった。仕方ないのだ。父さんは無茶苦茶忙しいし、ただでさえ苦手な家事を、僕がいるから、やらなくちゃならない。親のつとめといえば、それまでだけど、父さん一人ならどうとでもなるのに。僕は、この家にこのままいて、大丈夫なのだろうか。


ピアノをでたらめに鳴らしたみたいな、不協和音の気分が、食卓にただよっている。

僕は気まずいまま、父さんの顔をながめた。頬がこけて、少しずつ痩せてきているみたいだ。ひげも全然そってなくて、伸び放題。ああ、僕はいったい、どうしたらいいんだろうか。

翌日学校で、僕はうさぎ小屋に入って一人掃除をしていた。二学期最初の委員決めで、僕は飼育係になった。うさぎに、キャベツをやったり、小屋の掃除をしたりする。もう一人の担当、誰だっけ? 

まだ来ない、僕が早すぎたのか、そう思いながら、餌箱にキャベツを補充していると、こっちへ駆けてくる足音が聞こえた。振り返ると、幸田つむぎだった。幸田は、小屋のそばまで来ると、肩で大きく息をつきながら、話しだした。


「あのっ、飼育係の宮越さんが、今日風邪でお休みで、だから私が代わってくれないか、って朝家に電話があって。走って来たけど、ちょっと遅れちゃったね、ごめん」


「大丈夫だよ。そうしたら、飲み水を替えてくれる?」

僕は幸田に、うさぎの飲み水を入れてあるお皿を渡した。幸田は、水道のところまで行って、水を入れてきてくれた。

「ありがとう」

僕が言うと、幸田は眼鏡の奥で、にっこり笑った。

「私、今度皆川くんのお父さんに会うの、すっごい楽しみなんだ! 漫画家さんがこんな身近にいるなんて、知らなかったもの。すごく憧れなんだ」

僕は昨日の晩のことを思い返しながら、言った。

「うちの父さん、そんなカッコいい男じゃないよ。いまは僕を食べさせるのにせいいっぱいで、いろんなことに気が回ってないんだ。夕ご飯も、五パターンくらいしかないし、部屋はいつも散らかってるし、今度の親子遠足だって」

「親子遠足? 二十六日の?」

「うん、それ。そのときだって、何度もお弁当つくってくれ、ってお願いしてるんだけど、仕事に没頭すると、すぐに忘れちゃって。僕、二十六日は、お弁当ないかもって、今から覚悟してるよ。――そりゃあさあ、コンビニでおにぎり買ったって、それは弁当だよ? でも、なんか恥ずかしいじゃん。まるで、父さんと僕が『一人親カテイですよ』って、みんなにアピールしてるみたいでさっ」

幸田は、うん、うん、とうなずきながら聞いてくれて、そして僕に言った。

「親子遠足、当日に、ふつうのお弁当がほしいんだ」
「まあね」

「ふつうのお弁当、そんな難しくないよ。というか、ふつうのお弁当に見せかけるくらいなら、すごく簡単に、スーパーにあるものでできるよ。うちのママも働いてるから、お弁当は手抜きだよ? 

お弁当づくり、私もよく手伝うけど、すっごく簡単なんだ。よかったら、お父さんに会わせてくれるお礼に、あたしノートに書いてくるよ」

「お、おお。ありがとう」

一気にまくしたてたあと、僕がちょっととまどったのを見て、幸田は顔を赤くした。その足元では、フワフワの毛並みをした、うさぎたちが、エサのキャベツをカリカリかじってる。

幸田が校舎をふりかえり、朝日に照らされている時計の文字盤を見つめた。

「あ、もう少しで、ホームルームはじまっちゃうよ、行かなきゃ」

そうして僕らはうさぎ小屋に鍵をかけると、五年一組の教室に向かって駆けだした。

下校途中、僕がとぼとぼ家に向かって歩いていると、後ろから幸田の声で

「皆川くん」と声をかけられた。幸田は僕に、ピンクの便せんを渡す。
「ラ、ラブレターじゃないから!」

幸田は自分で言った言葉に、自分で赤面する。

「お弁当の作り方、休み時間に絵で描いてみたの。わかりやすく描けてるとは思うんだけど、もしわかんないことあったら、なんでも聞いて!」
「あ、ありがとう」

幸田はスカートをひるがえしながら、そのまま「私、塾で急いでるから! また明日」と言って駆け去って行った。

僕は周りに誰もいないことを確認してから、ピンクの便せんの封を開ける。

中から出てきたのは、折りたたんだ一枚のルーズリーフ。開いてみると、カラフルな絵で、お弁当のイラストが描かれていた。

真ん中の、色とりどりのお弁当からは、やじるしが四方八方に出ていて、『からあげは冷凍食品をチンします』とか、『ブロッコリーはゆでるだけ』とか『パックづめの出汁巻き卵がスーパーにあります』とか描いてある。

幸田の優しい気持ちはありがたかった。

でも、僕は、なんとなく「僕がお弁当をつくれば解決」だと思えないでいた。それは、いったいなぜなんだろう?

父さんに親の責任を果たしてほしいから? あんなに忙しそうに頑張って働いている父さんに?

それとも、何か僕はまだ父さんに、求めて足りないものを感じてるのだろうか?

僕は路地の石ころを、ポーンと蹴るとつぶやいた。

「母さんに、会いたいなぁ……」

思いがけず涙がじわっとこぼれそうになった。僕はぐっとそれを飲み込むと、いっせーのせ! で家に向かって走り出した。

家に帰ると、ちょうどホームヘルパーさんのお掃除が入ったあとだったのか、家の中が綺麗になっていた。父さんは「あー、〆切が終わった終わった」とコーヒーを飲みながら伸びをしている。

そうだ、幸田がうちに来るのはたしか明日だっけか、そう思いながら、僕は父さんに切り出してみる。

「父さん、二十六日の親子遠足なんだけど、お弁当……」
「おお、そうだったな。なんでも用意するぞ、何がいい」
「あの、僕、自分で父さんの分と僕の分、つくるのもありかなって……」

そこまで言った僕の言葉は、父さんの声にさえぎられた。

「その必要はないよ、悠希。ありがとう、気持ちは嬉しいが、悠希がそこまで大人ぶらなくたっていいんだ。ただでさえ、母さんが亡くなって、悠希は周りの子より早く大人にならないといけなかった。だから、こういうときは、甘えなさい。父さんは、一人しかいないが、母さんの分まで、悠希を大切にするよ」

真面目な声だった。そうして、その言葉は、てっぺんからさきっちょまで、僕が父さんから欲しかった言葉だった。僕はごしごしと目をこする。泣きたいけど、泣いたらかっこ悪いから、泣けないや。

僕は父さんの言葉を聞いて、幸田の言葉でわだかまっていた胸のつかえが溶けて行った気がした。

「それにしても、明日だろう? 悠希のカノジョが来るのって。ちょうど家が綺麗で良かった良かった」

「カノジョじゃないよ。ただの友達! 失礼なこと言わないでよ!」

父さんに釘をしっかり指すと、僕は自室にこもって、宿題のプリントを取り出した。早く片付けて、少しでも楽しいことを考えたい。

翌日、学校が退けた放課後、僕は幸田つむぎと家の近くの公園で待ち合わせした。一緒に下校してもよかったんだけど、そうすると、からかわれるのがうるさくて仕方ないからだ。

幸田が公園に現れると、僕は「こっち」と彼女をうちの団地まで案内した。うちの前までつくと、インターホンを押す。

「父さん、悠希だよ。友達連れて来た」
「おー」

中からガチャッとドアが開いて、父さんが顔を出す。ひげはちゃんと剃られて、普段かけてないおしゃれな黒ぶち眼鏡までしてるその姿に、僕は笑いをこらえた。

なんだ、僕をからかっておきながら、父さんだっていいかっこしてるじゃないか。

幸田つむぎは「お邪魔します」と深々とお辞儀をして、紙袋を父さんに差し出した。

「幸田つむぎといいます。お土産のお菓子持ってきました。皆川く……悠希くんと、食べてください。母が持たせてくれました」

「ありがとね、つむぎちゃん」

父さんは礼儀正しい幸田に、すっかりにこにこ顔だ。

ソファのある父さんの仕事部屋で、僕らは向き合って座った。

「つむぎちゃんは、絵や漫画が、好きなのかな」
「はいっ」

頬を紅潮させて、幸田つむぎは「わ、私、絵と漫画を持ってきたんですけど、見てもらえますか」と言った。父さんはにこやかに笑いながら、二十枚ほどの紙の束を受け取る。

僕はちらりとその紙の束を見たけど、びっしりと鉛筆画で繊細な絵がたくさん描かれていた。父さんは、一枚、一枚、じっくり眺めると、幸田に言った。

「本当に絵が好きなんだねえ」
「はいっ」

頬を染めながら答えた幸田に、父さんは聞いた。

「将来は、僕みたいに漫画家になりたいんだって?」
「はい。そうなんです。本当になりたいんです!」
「つむぎちゃん」

父さんは少し言葉を切ってから言った。

「漫画家になるっていうことは、大人になると決めることと、同じなんだよ。あと、大人になるっていうことは、漫画家になると決めるのと同じことなんだ」

「え……え?」

よくわからない、という顔をした幸田に、父はゆっくりとした調子で言った。

「絵も、漫画も、ずっと一生、つむぎちゃんの友達だよ。つむぎちゃんが、絵や漫画を好きな限り。だけど、それを職業にするっていうことは、子どものままじゃいられないってことだ。

子どもの気持ちのまま、身体だけ大人になって、絵を描き続けている人もたくさんいるけど、漫画や絵を職業にした人で、子どものままの人はいない。みんな、つらい目にも遭いながら、一生懸命絵を描く。そうすることで、――働いてお金をもらうんだ」

しーんとなってしまった僕と幸田を見て、父さんがふっと笑った。

「――どうだい、つむぎちゃん、ちょっと僕の話は難しいだろうか?」

幸田は、まっすぐに父さんの目を見て言った。

「私、それなら大人になります。大人になって、絵を描き続けます」

迷うところの一切ない声に、僕ははじめて、幸田をかっこいい女の子だと思った。

父さんはその後、漫画家の原稿料の仕組みや、編集者の人とどんな話をするか、子供の頃好きだった漫画のことなど、幸田と僕にかみくだいて離してくれた。父さんが、十八歳のときにもう雑誌の賞を取っていたことを、僕は初めて知った。

夕暮れに染まった空を見上げながら、僕は玄関の前で、幸田を見送った。隣に立っていた父さんに向かって言う。

「父さん、親子遠足のお弁当のこと、ぐちゃぐちゃ言ってごめん。父さんは、お弁当つくってくれると言ったけれど、やっぱり、僕がつくるよ」

父さんは、ゆっくり眼鏡の奥の目を細める。

「母さんが死んじゃってから、どっかで、僕、こんなはずじゃなかったって思ってた。本当なら、お弁当をつくってもらえて、片付いた家に住めて、ご飯も毎日違うものを食べられて、っていう当たり前の暮らしから、急に違う暮らしになって、僕、腹を立てていたんだ。――父さんが、悪いわけじゃなかったのに」

「悠希」

「だけど、これからは、僕ももっと、家のことするよ。お弁当つくったり、夕ご飯つくったり、掃除とか、洗濯とかもする。母さんの代わりに、僕がなるよ。それが、僕なりの大人になることだって、思うから」

父さんは、少しためらうようにして、言った。

「悠希。無理してないか。――こんなことを聞くのはなんだが、本心では、新しいお母さん、ほしいか?」

僕はゆっくりとかぶりを振る。

「僕の母さんは、母さんだけだよ」

父さんは、安心したように言った。

「よかった。同じ気持ちだ」

僕は、父さんのこの言葉を聞いて、なぜ自分が幸田つむぎの提案してくれた弁当じゃだめだったのか気が付いた。

母さんのお弁当は、いつも小さな手作りのおかずが、ぎゅうぎゅうに身を寄せ合うようにしてつめこまれた、美味しい手作りだった。もちろん、市販品を使うのが悪いんじゃない、僕の再現したい、親子遠足に持っていきたいお弁当は、母さんのお弁当をなぞったものだということに気が付いたのだ。

「いつか、僕、母さんのお弁当みたいなおいしいお弁当、つくれるようになる」

父さんは、ぽん、と僕の頭に手を置くと、笑った。

「そろそろ、暗くなる。――晩飯の時間だ。悠希も、一緒につくろう」

親子遠足の日。僕は、気持ちいい秋の日差しが降って来る運動公園を、父さんと一緒に歩いていた。

〆切がまた近くなってきた父さんは、歩きながら漫画のネタを考えているのか、しじゅうぶつぶつ、何やらつぶやいている。

「あっ、父さん、アスレチックだよ、一緒にやろうよー」

僕は大きな声で父さんに提案する。

今朝、僕は六時に起きて、父さんと二人でお弁当をつくった。母さんみたいに、ちまちま細かいおかずはまだ作れないから、僕のアイディアで、ケチャップライスと父さんお得意のオムレツをつめあわせて、オムライス風お弁当にしてみた。ケチャップライスにはベーコンとミックスベジタブルを混ぜた。

僕がアスレチックの縄に飛びつくと、父さんも、負けじと飛びつく。二人でゆらゆら揺れながら笑いあった。

遠くの方で、担任の長澤先生が大きな声を出す。

「お昼の時間ですようー、皆さん、集まって、レジャーシートを広げましょう!」

待ちに待ったお昼の時間だ。さあ、僕と父さんがつくったオムライス風お弁当は美味しいだろうか。長澤先生のところに、どんどん集合する家族連れの中の二人となって、僕と父さんは、秋の風の中にいた。

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