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【短編】初雪

大学の試験期間が終わった金曜日、明日から週末! と喜んでアパートに帰ってきたら、ボイラーが壊れてお湯が出なくなっていた。うそ、とショックを受けて、このアパートを貸してくれた不動産屋に電話をすると、今日はもう5時を回ってしまったので、修理は明日になります、と言われてしまった。

今日は十二月に入ったばかりの、ひどく冷え込む晩だった。

「どうしよー、お風呂入れないじゃん」

試験勉強を必死でしていたため、この二日、お風呂に入らなかったのがまずかった。今日はどうしても、髪も体もきれいに洗って、何よりこの寒さの中、あたたまりたい。困って、田舎の母に電話した。

「お風呂屋さん、近くにきっとあるわよ。ネットで探しなさい」

母の助言に、そうかあ、と思った。でも、銭湯なんて、ずっと行っていない。ほんとに近くにあるのかな、と、パソコンを立ち上げて検索してみると「鶴の湯」という古くて小さな銭湯が、たしかにここから歩いて四百メートルくらいのところに、ちゃんとあった。

バスタオルと、小さなタオルと、シャンプーに化粧品セットをかばんに入れると、しっかりコートを着込んでアパートを出た。

十二月、日が落ちた街を歩く人たちは、みな足早だ。吐く息が白く、思わずコートのえりを合わせる。手作りっぽいイルミネーションが、個人病院の庭木に飾られていて、クリスマスが近いことに気づいた。

歩いていった先の鶴の湯は、本当に昭和っぽいごく小さな銭湯で、おそるおそる引き戸を開けて入ると、上り口で靴を脱いだ。

番台に座っていたのは、割烹着を着た小柄なおばあさんだった。

「大人は400円ね」

小銭入れを出して支払うと、女湯ののれんをくぐる。小さな脱衣所には、数人の女性客が、着替えたり、ドライヤーで髪を乾かしたりしている。空いている籐のかごに、着替えを放り込み、貴重品だけ鍵付きロッカーにしまった。とにかく体が冷えている。浴場へと続くガラスの引き戸を開けて、タオル片手に入っていくと、ヒノキの浴槽が見えた。と同時に、ふわっと良い香りがして、はっとする。

「あ……柚子? 柚子湯?」

透明な湯であふれる浴槽の中、ネットに入れられて柚子の実がいくつもぷかぷか浮いていた。鮮烈な、冬を感じさせる柑橘の香りが、そこらじゅうにただよう。そろそろと手すりにつかまって、浴槽への段差を降り、熱い湯に体を沈めた。そのまま、顎の先まで沈めようとしたら、先に入っていたおばさんがぼそっと言った。

「髪はつけちゃいけないよ。公共の風呂だからね」

あわてて、タオルで髪をまとめて、謝った。そして改めて、肩先まで、しっかり沈めると、熱い湯が体に染みていくのを感じた。

柚子のネットがぷかぷかこちらに流れてきたので、つついてみると、さらにふわっと香る。

私が柚子で遊んでいるのを見て、さっき注意してくれたおばさんが、少しだけ柔らかい表情で言った。

「この銭湯は、十二月中はずっと、柚子湯をしているんだよ。本来は冬至の日にするものだけど、ここはひと月やってくれるんだ」

「柚子湯、はじめてなんです」

「そうかい、そりゃあ良かった」

じっくりと体を温めたあと、髪と体をもってきたシャンプーで洗った。小さな浴場は、誰かのたてる音が、こもったように響く。洗った後、再度ゆっくり柚子湯につかり、脱衣所に戻って着替えた。

ドライヤーで濡れた髪をかわかし、自動販売機でフルーツ牛乳を買って一気飲みする。あたたまった体に、甘い味は嬉しい。

コートをまたしっかり着ると、私は番台のおばあさんに「ありがとうございました」と声をかけた。すると「外は雪だよ、気をつけてお帰んなさい」と返事が返ってきた。初雪だ。

木の引き戸をガラガラ開けると、たしかに、暗い空から、白い白い雪粒が、舞い降りてきていた。その様子は、とても幻想的だった。

ああおなかがすいた、と我に返って思う。今日はコンビニでほかほかのおでんを買って帰ろう。大根に卵、ちくわに、ソーセージ。ちょっとだけお酒をあたためて飲むのもいいな、と考える。今日はテストが終わったお疲れ様会を、ひとりでやろう。

十二月の間に、またこの鶴の湯に来たいな。そう思いながら、私はちらつく小雪の中、家へ向けて歩き出した。

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