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【連載小説】梅の湯となりの小町さん 2話

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「あの、それで佳代さんは……ご挨拶をせめて」

「母さんは、この時間は銭湯の受付してるよ。父さんもたぶん、男湯の清掃に行ってる時間かな。父さんが受付に入ったら、そのあとは母さんが女湯の清掃に入る。今の時間なら、受付で母さんに会えるから、一緒に行く?」

そういえば、ここは銭湯のとなりにある建物で、この一家は銭湯の経営をなりわいとしているのだった、と思い当たる。

「ご、ご迷惑でなければ」
「かまわないよ。じゃ、行こうか。そっち曲がると、外」

言われるがままに玄関のほうへと向かいながら、昌太くんがとりあえず親切にしてくれそうでよかった、とほっとした。さっきの「二畳」の話を聞いた限りは、姉の花恵さんはあまり歓迎ムードではなさそうだったし、兄の征一さんはずっと前に親族のお葬式で会ったことがあるけれど、表情の変化に乏しい、ちょっと怖い印象の人だった気がする。

うまく、私はここの家族の人たちに馴染んでいけるだろうか――? 不安は考えれば考えるほどふくれあがりそうだったので、いったんそのことを頭から追いやった。

昌太くんが玄関でスニーカーをつっかけ、引き戸をガラガラと開けた。ふわっとなだれ込んできたのは、春の気配だ。雪国である私の地元よりも、東京はかなり暖かい。外に出ると、私は改めて、これから自分の住まいとなる小さな平屋建てをとっくり眺めた。

春の陽の照り返しを受ける黒い瓦屋根、ところどころはげかけた黄土色の外壁、破れをつくろってある網戸、そして小さな前庭にはたくさんの緑の鉢植えが置いてある。レトロだ、それにしてもレトロだと感心する。東京の下町だと、まだこういう家がたくさんあるんだなと、感心した。

「紘加さん、こっちだよー」

昌太くんが手招きしているのに気が付き、ぼんやりしていた頭を振って彼のほうへと向かった。平屋から十メートルもいかない、道を挟んで向かい側に銭湯「梅の湯」はあった。

(うわー……、これまた、古き良き銭湯……)

予想以上に、梅の湯の「昭和」なたたずまいに私はぽかんと口を開けた。私の地元でも、もっと新しいお風呂屋さんはいくつもある。さまざまなお湯が楽しめるスーパー銭湯や、昨今のサウナブームの影響もあって、賑わっているはずだった。

ところどころタイルの欠けている壁や、えんじ色の布地に白の毛筆字で「梅の湯」と染め抜かれている、正面入り口の大のれんを見ていると、昌太くんがふふっと笑った。

「紘加さん、あまりに古すぎて、引いた? 顔に出てるよ。こんなはずじゃなかった――、って」

私はあわてた。そりゃあ、この建物の古さにおののいたことはたしかだけど、これからお世話になる家族のひとに、こんなことを言わせるだなんて失態だ。

「た、たしかに古くてびっくりした……。でも、こんなはずじゃなかったなんて、思っていない、です。銭湯のなかに、佳代さんがいらっしゃるんだよね。挨拶、してくる」

「じゃあ僕、家のほうで待ってるから、行っておいでよー」

のんびりした声で、昌太くんが言うので私は心細くなる。そんな、一緒に来てくれるんじゃないの? でも、それがあまりに甘えた発想だと考え直し、勇気を出して大のれんをくぐった。

上がりかまちで、靴を脱いだ。すぐ後ろから入ってきたおじさんが、脱いだ靴を持って一段高いカーペットの床に上がり、ロッカーのほうへ向かうのを見て私も倣う。あ、でも私、別にお風呂をもらうわけじゃないけど、これでいいんだろうか。すでに、頭のなかはパニックだ。銭湯なんて、ずいぶん長いこと来ていない。

はたして、ロッカーすぐ横のカウンターに佳代さんが座っていた。いつか、二朗おじさんからの年賀状に載っていた写真で見た顔だ。色の抜けた茶色いショートヘアをしていて、体つきは棒のように細い。

すぐ声をかけられずに見ていると、佳代さんはやってくるお客さん一人一人に声をかけ、ちゃきちゃきとさばいていた。

「はい、入浴料五百円まいどあり。タオル? タオルは百円ね。うん、追加でもらうから。コーヒー牛乳あるかって? うん、自販機はあっち」

「あらー、おじいちゃんと一緒に来たの? お風呂場の床はすべるから、走ったらダメだよ。遊ばないで、お行儀よく入ってねー」

「えー、久しぶりにあんたの顔見たわ。え、お姑さんが入院? そりゃあたいへんだったねえ。そしてあんたもぎっくり腰になったって? いやあ、みんな無理が効かなくなる齢なんだから、お大事にしないとー」

とにかく、声がはきはきと強く明るく、機関銃のようにトークを繰り広げていく。おっとりしたうちの母とは正反対のタイプだ。おずおずと後ろから様子を窺っていると、佳代さんの声が飛んできた。

「ほら、そこのお嬢さん。そこに立たれると、後ろからお客さんが来るのをふさいじゃうでしょう。入浴料五百円、女湯はあっち」

「あの……」

「え? なに? 聞こえないよ。大きな声でしゃべってくれない?」

私は緊張しながらも、ぐっと腹に力をこめて大声を出した。

「あの、今日から名村さんちに居候させてもらう、姪の小町紘加です! おまんじゅうを持ってきたので、昌太くんに預けてあります! これから、どうぞよろしくお願いいたしますっ!!!」

とたん、ざわついていたカウンター前の休憩所がしんとなった。風呂上りのお客さんや、入口から洗髪道具を抱えてきたお客さんたちが、目を丸くして私のほうを見ている。しゅーっと、頭から湯気でも出そうなほど、恥ずかしかった。声が大きすぎたのかもしれなかった。

とたん、佳代さんはすっとんきょうな声で天を仰いだ。

「えーっ! 昌太におまんじゅうを、全部預けたの? いまごろ、箱はほとんど空になってるわ……」

そんなことを言われても。一拍分の間があって、佳代さんはようやく私に視線を戻すと「紘加ちゃん」と見据えてきた。

「長旅、疲れたでしょう。まず、うちの銭湯に入っていきなさい。昌太が帰ってるんなら、お風呂のあと、いろいろ教えてもらったらいいわ。私は夜まで、店番だから。晩ごはんは冷蔵庫に用意してあるから、昌太とでも食べなさいね」

入っていってね、でも、よかったら入ってもいいよ、でもなく、入っていきなさい、か。思い切り命令口調だ。

――これは、拒めない。佳代さんのあまりに有無を言わせない言葉に、私はちょっと胃痛がする思いになった。しおしおと、梅の湯を出ると平屋の名村家へと、タオルと下着をとりに戻った。

十五分後。

透明で熱いお湯に首まで浸かった私は、頭にタオルを載せて「あー、天国……」と呟いていた。

最初は、長年縁がなかった銭湯――つまりは公衆浴場に入ることに、かなりの抵抗があった。だって、ずっと実家では一人でお風呂を使っていたし、家族でお風呂屋さんにしょっちゅう行くような家庭でもなかった。

でも、いざこうして銭湯の熱い湯に体を沈めてみると、じわじわと疲れが抜けていくのが分かる。そして、梅の湯は設備や建物自体は古くはあったものの、浴場のどこもかしこも丁寧に掃除がされていて、とても清潔だった。

最初は脱衣所で着替えることや、その際に見られてしまう自分のやたら薄い胸も恥ずかしく思ったが、豪快に着替えをする利用者の人たちを見て、変に意識するほうがおかしいのだと気づいた。

洗い場で、備え付けのリンスインシャンプーを使いながら、今度はお気に入りのシャンプーやコンディショナー、洗顔セットなどを持参してこようと決めた。それらを入れるカゴも、おそらく100均で手に入れられるだろう。

浴場の壁タイルには、赤やピンクの梅の模様が描かれていて、可愛らしかった。少し、この銭湯に親近感を持つ。

湯に漬かったまま、気持ちよさにまかせて浴槽の背もたれにずるずるともたれかかろうとしたそのとき。頭に湯が触れた、と思ったとたん鋭い声が飛んできた。

「こらあんた! 風呂屋で自分の髪は、湯に浸けちゃいけないんだよ!」

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