【第8話】二人だけのクリスマス
十二月になり、小さなこの町も、あちらこちらでイルミネーションが見られるようになった。クリスマスイブを五日後に控えて、本来なら浮き立つ気分のはずなのに、きらきらした光たちを見ていると、余計に寂しさが増してくる。
大学の授業が終わり、私は大学の敷地内を歩いていた。今日はクリスマスケーキを紺堂が用意すると言っていて、家に帰ったらたぶんその味見をしなければならない。美味しいケーキは楽しみだけど、紺堂の純粋な気持ちをどう扱っていいかわからずに、私はなんとなく家に帰るのが億劫だった。
ふと、顔を上げると、目の前に教会があった。うちの大学はミッション系なので、教会もあるし、神学部もある。街中のイルミネーションは、ただ騒がしく思えて、勘にさわるけど、大学内の教会が、夕暮れの明かりに彩られているさまは、本当に、本来の荘厳なクリスマスのようで、気持ちが和んだ。
私はふと、教会のすぐそばの掲示板を見ている人影を見て、はっとした。丹羽だった。ためらったが、つい気になって近づき、声をかける。
「丹羽さん」
「ちなっちゃん」
丹羽は私を見ると、少し表情を硬くしたが、すぐに、ふわっと目元を和ませた。
「久しぶり。元気にしてた? 単位は大丈夫だったか?」
「うん、なんとか。丹羽さんは」
「うん、もう、向こうでどこに住むかとか、そういうことを考えてる」
「そう」
確実に、未来へ足を進めている丹羽の言葉を聞いて、肩を落としていると、丹羽が、少し言いにくそうに、でも、優しい声で言った。
「秋にお店に行ったときは、あんな返事を返してごめん。ちなっちゃんは、育ったお店が、大事でしょ」
私が何も言えないでいると、丹羽はひとことひとこと、噛み締めるように続けた。
「だから、あの店から、ちなっちゃんを奪ったらいけないって、ずっと思ってた。俺が風邪ひいた夜に、告白されるまでは。ちなっちゃん、本当に、可愛いと思ってるよ。だけど、俺が一緒に、あの店をやっていくことはできない。たぶん、あいつと結婚したほうが、ちなっちゃんは幸せに」
そう口にしている丹羽の声が、震えていた、たぶん寒さからではなかった。食いしばるような表情の丹羽を見て、
「それって、丹羽さんの、本心?」
と私も震えながら聞いてしまっていた。
「本当の、気持ちを教えて。私は、丹羽さんが好きなの。——紺堂さんも、優しくしてくれるけど、いつまで経っても、丹羽さんのことばかり、考えてしまう。お願い、本心、を」
最後まで言い終えないうちに、丹羽に抱きすくめられていた。丹羽の絞り出すような声が続いた。
「本心なわけ、ない、だろぉっ……! 本当は、すげーやだよ。あのコックに、ちなっちゃんを盗られたくないよ。夏から、どんどんちなっちゃんが気になるようになって。でも、俺はまだ社会人じゃない。あの紺堂にはその点で、勝てない。でもどっちみち、ちなっちゃんをあの店から奪うわけには、いかないって、どんなに俺が、さらっていきたくたって、それはできないって、思ってるだけだ……!」
丹羽の葛藤と苦渋に満ちた声を聞いて、私も苦しかったけど、嬉しかった。
「丹羽さん、お願いがある」
「——何?」
「これから、デートして。そして、今晩、丹羽さんの家に泊まりたい」
丹羽が、私の首に手を回したまま、はじかれたように私を見た。教会から、静かに讃美歌が流れてきて、寒さにかじかんだ私の耳をついた。
そのまま二人で、大学近くのライトアップされている環水公園を歩いた。温かい飲みものをカフェで買って、手をつないで、何度もキスをした。かさかさした丹羽の手が、つめたい私の手よりも温かくて、この感触を覚えていたい、と強く思った。
700円でチケットを買って、公園のそばの観覧車に乗った。どんどん高いところまでのぼっていくにつれ、十二月の街明かりが、眼下に広がった。
私も丹羽も、はしゃぐ気持ちを抑えきれなくて、それは、これから結ばれることへの期待と、たぶん一瞬で終わってしまうかもしれない幸せの瞬間を、見ないようにしたいだけだった。
丹羽の家に着いたのは、九時半を回っていた。携帯に、紺堂から、十件ほど着信が入っていたが「ごめん、友達の家に泊まることになった」と返して電源を切った。
丹羽は、さっき二人で買ったピザとコーラを、テーブルの上に並べると、「おうちは本当に大丈夫なの」と、聞いてきた。
「うん。大丈夫」
そう言うと、丹羽のすぐ隣に腰を下ろして、膝を抱えた。
「なにかわいい座り方してんのー」
ようやくいつもみたいに茶化す余裕が戻って来た丹羽に、私はほっとして、みずから丹羽の頬を両手で挟むと、くちびるを合わせた。
明かりの消えた室内で、ただ丹羽と私の呼吸を重ねていると、二人で誰もいない海を流されていくようだった。女慣れしているのだとてっきり思っていたけど、想像よりもずっと不器用に、丹羽は私を抱いた。
漏れ来る息の荒さが、ただ愛しくて、丹羽の背中にただしがみついていた。丹羽のゆびさきが、私の目元をぬぐう。
「泣いて、た? 私」
「うん」
体を離すと、二人で手を繋いで、狭いシングルベッドに並んで足を伸ばした。丹羽の肌の匂いがする。あたたかく乾いた匂い。男の人というのは、とくに丹羽は、もっと湿っているように思っていたのに。顔を丹羽のほうへ向けると、丹羽も見返してきた。そのまま、また深く口づけられて、息ができなくなった。そうしてそのまま、いつしか私も丹羽も、眠ってしまった。
翌朝、目を覚ますと隣に丹羽がいて、私は昨日の記憶を思いだした。酔っていたわけではない、自分の選択を、間違えたわけでは、決してない。ただ、胸の内が、ざらざらと、苦かった。すごく幸せなはずなのに、私が一番に思ったのは、やっぱりお店のことだった。
「んー、ちなっちゃん、もう、起きたの」
寝ぼけて甘だるい声で、丹羽が言った。そのままぎゅうっと、また背中から抱きすくめられて、私は言葉を失う。
「丹羽、さん、丹羽さん」
「——どした?」
私の声に、丹羽が体を起こす。私は、裸の体を縮こまらせながら、告げた。
「ごめん、丹羽さん。私、東京へは、やっぱりついていけない。こんなことして、ごめんなさ——」
「わかってたよ」
丹羽は、ひどく優しい声で言った。そうして、私のほつれた髪を、さらにくしゃくしゃとかきまぜた。
「ちなっちゃんにとって、あの店はなにより大事だもの。そうして、俺は、あの店に、ウェイトレスとして立ってる、ちなっちゃんが、他の誰にも負けないくらい、好きで。だから、いいんだよ。自分の選択に、誇りを持ったらいい」
丹羽は、そう言うと「おいで」と私を抱きとめた。
「ごめん、東京に行く選択をして。あの店で、学生のまま、ずっとランチ食ったり、ちなっちゃんに出前してもらったり、そういう日々が続いてくれないかな、って思ってたんだけど、俺も大人にならないといけないから。——ありがとう、この町で、たくさんの思い出ができたよ。一番は、ちなっちゃんのことだよ。本当に、大好きだ」
丹羽の目が、ただ穏やかだったので、今までこの恋で泣きっぱなしだった私も、今度は泣かずにその言葉を受け止められた。昨夜の記憶は、宝石みたいにきらきら光って、ずっと自分の心の箱にしまわれることになるだろう、と私は思った。
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