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【小説】奥川さんのカレー #おいしいはたのしい

朝、六時に目覚ましが鳴る。ずっと寝ていたい、という思いと裏腹にがばりと起きて、洗面所に向かい顔を洗う。歯を磨いて、朝食を簡単に食べ、出勤の用意をする。私の頭のなかでは次にしなければならないタスクが、分刻みで羅列されている。

小走りで家を出て、最寄り駅へと向かう。電車が来るまで、あと十分。二月の朝は、晴れていても凍えるように寒い。それでも、会社に行って、仕事をこなして、終わったあとは買い物をして、洗濯機を回して、と、私の一日の予定はぎちぎちに詰まっている。

社会というこの大きな「仕組み」から、はみださないように、外れないように、落っこちないように。そんなことばかり考えて毎日をこなしている。でも、どこかで、この電車を降りずに、終点のどこか知らない駅にまで行ってしまえたら。

ドロップアウトへのたしかな怖れと、暗い憧れを胸に抱くたび、私はいままでに食べたなかで、一番おいしかったあの味を思い出す。父の友人である奥川さんがつくってくれたカレーのことを、ただ思い出すのだ。

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私が小さいころ、父の休日に、父の幼馴染である奥川さんがよく家に来て、酒盛りをしていった。市役所職員の父は、個人でカラオケ喫茶を構えている奥川さんととても仲がよく、しょっちゅう家に連れてきていたのだ。

奥川さんは料理がとてもうまく、酒のおつまみをさっとつくったり、ピザ生地や餃子の皮を手ごねしてこしらえたり、父の友人たちから頼まれて、宴会でその腕をふるっているらしかった。うちに来た時も、キッチンを借りて、いつもおいしいものをつくった。

父は、私と母という家庭を持っていたが、奥川さんは四十歳を過ぎても独身だった。家庭を持つことに興味がないのだと眉を下げて父に笑い話をしていたことを思い出す。

私は奥川さんを、父の友人の優しくておもしろいおじさんとして、ときどき彼の料理のおこぼれにあずかれるのを楽しみにしていた。

ある日、父は私を連れて奥川さんの事務所を訪問した。奥川さんの事務所とつながっている店のおもてには「カラオケ喫茶 どれみ」と大きな看板がかけてある。事務所に入ると、背の高い本棚にいっぱい書類の入ったファイルが入れてあった。

父と奥川さんが話をするあいだ、手持無沙汰になった私を気にかけたのか、奥川さんが「まさみちゃんはこっちで待っててね」と、私を別の部屋に連れて行った。その部屋も本棚だらけだったが、全面に入っていたのはすべて少年漫画で、私は目を輝かせた。私は女だったけれども、小学生女子のあいだでも、少女漫画派と少年漫画派がいて、私は後者だった。

漫画を夢中で読んで、どのくらいの時間が経っただろうか。父が「まさみ、奥川くんがカレーをつくってくれたぞ。一緒に食べるか?」と呼びに来た。

私は漫画を元の棚に戻し、父について事務所のほうへ戻ると、いままでかいだことのないほどいい匂いが鼻孔をくすぐった。すぐに奥川さんが、皿に載せたカレーライスを運んできた。

家で母がつくってくれる、ルーのカレーよりもずっと黒い。そして、ひとくち食べてみて、私はあまりに驚いてしまった。まったく未知の、美味しさだった。辛いんだけど、甘い。甘いんだけど、辛い。複雑なうまみが、舌を刺激して、いくらでも食べられてしまう。

「奥川さん、カレーに何を入れたの?」

家庭科の授業でつくったカレーも、こんなに美味しくはなかった、そう思って私は奥川さんに聞いた。奥川さんは、目の端にたくさん皺を寄せて、笑った。

「隠し味にコーヒー、たくさんのスパイス、それと、果物のすりおろしやジャムをたくさん混ぜてあるんだ」

「こんなにおいしいカレー、食べたことがない」

私がそう言うと、奥川さんはとても嬉しそうな顔をした。

「まさみちゃん、僕、インドに行こうと思っているんだ」

奥川さんは唐突にそう言って、私を驚かせた。

「カレーの隠し味の秘密は、いま教えたから、まさみちゃんがいつか再現してね」

そう言って、奥川さんはチャーミングに片目をつぶった。父は私の隣で、何も言わなかった。

その日からだいぶ経って、父から奥川さんが店をたたんで、本当にインドに行ってしまったことを聞いた。長い時間をかけて、現地の人とネットワークを築き、移住を決めたのだと言う。

たかがカラオケ喫茶とはいえ、そこそこ利益も出ていたようで、父は「なんでいきなりインドになんか行ったのかわからない」と寂しそうに言いつつも、彼の前途を祝福しているようだった。

一人のおじさんの、人生を賭しての大冒険。奥川さんにとっては、ずっと決めていたことでおおげさなことではなかったのかもしれないが、私にとってあのカレーの味は忘れられない。

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電車は定刻通りに会社の最寄り駅に着いた。プシュー、と音を立ててドアが開き、私は会社に向かって歩き出す。奥川さんのカレーが、無性に食べたくなるときがある。たぶん、元気がほしいとき。勇気を出したいとき。

私はあのあと、何度か自分でもカレーづくりにはまり、奥川さんのカレーを再現しようと試みたことがある。でも、どうしても、奥川さんのカレーには、ならなかった。

忘れられない味がある、ということは、たぶんいいことなんだろう。私は今日も会社で働く。去年父に届いたエアメールからすると、奥川さんは六十歳になった今もインドで悠々と暮らしているみたいだ。

もし、いまの会社へ通う日々からジャンプして、どこか行きたいところへ行けるその日が来たら、奥川さんにちゃんとあのカレーのレシピを聞こう。

私はそう思いながら「おはようございまーす」と、前をゆく会社の同僚に声を張り上げた。


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