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【小説】色づけば【再掲載】

私の体と心には、思い出が火傷の痕のように灼きついている。まだ子供だった頃、その日家には誰もいなかった。当時十二歳だった私は母の部屋にこっそり入り、鏡台の下の棚を開けて、口紅やら白粉やらを引っ張りだしては遊んでいた。

母は昼間男の人と遊びに行き、夜にスナックで働いて生活費をかせいでいたので、まさに鏡台の下の化粧品は一人の女として余すことなく満足を得る必需品であり、お財布とつながる大事な商売道具でもあって、大事な宝物のようにしまわれていた。


私はこっそり棚の中からルージュを一本取り出すと、キャップを開けてくるくると柄を回してみた。とがった赤い芯が出てきて、これで母はいつも女を装うのだと幼心にもわかった。自分の口元にそっと近づけてみたが、塗ってみるにはいたらなかった。

子供顔の私にとってはちぐはぐにしか見えないと、さすがにわかったからだ。早く、早く、大人になれたらいいのに。そう思いながら、棚の奥のほうを漁ろうとしていると、玄関の鍵が回されてドアを開ける音が聞こえた。


「お邪魔します――と」

とっさに鏡台と同じ部屋にあるカーテンに巻きついて隠れた私だったが、侵入者は靴を脱いで部屋に入ってきて、すぐにに私を見つけた。

「あ、ゆき子さんの娘さん?」

カーテンからおずおずと顔を出すと、茶髪をした二十代前半程の男がくしゃっと笑いかけてきて、ああ、母の新しい恋人だな、と勘付いた。母はいつも、年の離れた若い男ばかりを囲うのだ。デートの相手くらいなら仕方ないが、お父さんになるとかだったら厭だな、とさめた頭で思った。

その男は、笑顔もしぐさも、どこか生命力の強い植物のように湿った気配がして、これを色気ととる人もいるのかもしれないけれど、その反面、どこか傷んでいる風にも見えた。とにかく、雰囲気が濃厚なのだ。

部屋には午後の光がカーテンの隙間から斜めにさしこんでいて、くっきりと部屋の中に明るい部分と影の部分を作っていた。男の目を覗きこむと、変に暗くて、私を影の部分に一瞬でひきずりこみそうだと思った。

「ゆき子さんに、この部屋で待ってて、って言われてるんだけど、きみがいるとは聞いてなかったなぁ」

男の声はざらめの味のように甘さをはらんでいて、私は動けなくなった。ふいに彼は、足元に目をやり、棚から出したまましまうタイミングを逃して、畳に散らばったままになっている化粧道具を見つけて、中からルージュを拾いあげた。

「何? 化粧なんかすんの? 遊んでたの? 子供なのに?」


心底おかしそうに言ってから、男は思いもよらないことを言った。


「じゃあ、お兄さんが、君を魔法にかけてあげよう」

とてもふざけた声だったので、私は警戒したが、男はそのまましゃがみこんで、化粧棚をあさりはじめた。しばらくしてから「あった、これこれ」と小さな瓶を私に見せた。

「爪、塗ってあげるよ。やったことないだろ」

男の手にあったのは、珊瑚色のマニキュア瓶だった。私は恐れてもいたが、好奇心に負けた。自分でも塗ってみたことは実はあったのだけど、ぜんぜんうまくぬれなくてガタガタのボロボロで、あとから呆れ顔の母に除光液で落としてもらった思い出がある。

「手、出して」

そう言われ、男の大きな手に自分の小さな手をあずける。男は、私の左手の小指から順番に、小さな刷毛をすべらせていく。爪の先一つ一つが色づいて、光沢を放つ。

「上手いだろ」

私の内心を見透かしたように、彼がふふんと笑う。

「前の女に、よく塗ってやってたんだ」

その瞬間、私の心に知らない感情が宿る。いまなら嫉妬とか、ジェラシーだとか名前をつけられるけど、そのときはただ、胸が焼け焦げたようだと思った。
十本の手の爪をきれいに塗り終えると、男は「動かすなよ、乾くまで」と言ってから「つぎは足ね」とのたまった。


クラスの女の子とは手をつないだことはあるけど、足を他人にさわられたことなどなく、私は一瞬ひるんだ。顔に抵抗の色が浮かんだのがわかったのか、男が言った。

「大丈夫、なにもしないから。色ぬるだけだから」と。ゆるゆると、身体の体温が上がっていく。私は観念して、靴下を両足ともぬいだ。男がはだしのかかとをそっと持ち上げて、視線を足先に集中させる。刷毛でひとぬり、ひとぬりされるたびに、私の足がこきざみに震えるのを、彼は気づいただろうか。もしかしたら、それすら愉しんでいたのかもしれない。今思えば、悪趣味なのだけれど。

「はい、できた」

そう言われて、足が二本とも解放されると、私は思わず顔をそむけた。終わってみてからやっと、かなり自分ははしたないことをした、という気分がわきあがってきた。

「そんな顔しないで、自分で見てみろよ。綺麗にぬれたんだから」

私はやっと顔を上げると、薄紅に染まった爪を見る。手も足も、自分のものとは思えず、大人っぽく見えた。

「きれい、お姫様みたい」

思わず口をついて出た言葉に、男は笑みを浮かべて、きれいに爪がぬられた私の手をとった。そのまま、そっと手の甲にくちづけられた。

「お姫様、大人になったら迎えにきますよ」

初恋の記憶が、褪せないのはなぜだろう。二十二歳になる今も、私は彼が言い残したたぶん冗談に違いない約束を、忘れられないでいる。あのあとはたしか、帰ってきた母が私の爪を見て男に憤慨し、出て行ってと言って、それから彼とは一度も会っていない。

母は私のことも、平手でいちどだけぴしっと殴った。母に手をあげられたのは、後にも先にもこのときだけだったけど、今思えば母は嫉妬していたのかもしれない。男が爪をぬったのが、恋人である母ではなく、その娘の私だったことに。

私はそれから、爪先に色を欠かさなくなった。色のついた爪を見るたび、かならずあの日にひきもどされる。あの光が少しだけしか入らない暗い部屋、そこで私は、ずっと男を待っている。




「どうしたらきみちゃんみたいにメイクが上手になれるのかな」

社員食堂で、一緒にお弁当をつついていた同僚の夏帆が、小首をかしげて私に言う。たしかに、夏帆の化粧は私に比べれば、あちらこちらに隙があるのがわかるほどには下手だ。チークはちょっと入れすぎだし、アイシャドウはめんどくさいのか苦手なのか入れてはいないし、唇も少し荒れ気味だ。でも、そんな夏帆には、優しい恋人がいて、挙式の日取りが迫っている。

「なんせ、十二歳のときから、メイク練習してたからねー」
「えっ、それほんと? 不良だぁ」

私のふざけた告白に、夏帆は目を輝かせる。そう、あの日、男が現れたのは十二歳のときで、中学に進学した私はドラッグストアでプチプライスの化粧品を集め始めたのだった。母のいない時間に鏡台を使い、練習に練習を重ねたのだ。大人になってあの男がもう一度現れたら、今度は子どもだなんて思わせない、なんてきれいになったんだと言わせたい。

馬鹿みたいな思い出を心の中で大事にして、いつの間にか十年が経った。
男は、現れないままに。

「でもでも、ちらっと聞いたんだけど、きみちゃんはいままでカレシがいたことないってほんとなの?」

またこの質問か。そう内心うんざりしながら、笑顔で答える。
「うん、だって好きになれるほどの男、いないし」
そう言うと、夏帆は笑い転げた。

「その台詞、きみちゃんだからこそ、似合うよね。たしかにきみちゃんの美貌につりあう男って、なかなかいないもん」
「でっしょー?」

我ながら鼻にかけた台詞だな、と思いつつ、私は夏帆の目の前にある小さなお弁当箱を眺める。丁寧にからあげや卵焼きがつめあわされている、夏帆手作りのお弁当。料理が得意だと聞いていて、たいがいの男の人は、隙のないメイクをして笑わない自分よりも、夏帆みたいに、多少容姿に隙があって、おっとりして、料理上手の子を妻にしたいんだろうな、と思う。

今日の私のお昼は、会社のそばのコンビニで買ったサンドイッチとカロリーメイトだ。私は料理をしない。せっかくきれいに塗ってある両手の爪が、傷つくことになるから。

大事な大事な、私の爪。あの人がかつて塗ってくれた、私の爪。

「さー、そろそろお昼時間も終わりだね。めんどいけど、戻ろ」

夏帆の声に、私も席を立つ。午後からは、頼まれた会議の資料を大量にコピーする仕事が待っている。

会社が退けたあと、いきつけのネイルサロンに寄るために横浜駅で電車を降りた私は、改札を出たとたんに声をかけられた。

「お姉さん、きれいだね。ちょっと話、聞いていかない?」

ひとめで夜の仕事を斡旋する業者だとわかる。水商売風のメイクをしているつもりはないのだが、スナックで働いていた母の血を律儀に受け継いでいるのか、私はこの手の輩に声をかけられることが多い。

「忙しいの。いまから行くところがあるから。そういうところで働くつもりはないから」

男を振り切ると、私は交差点を渡り、人ごみをかきわけながら、毒づいた。
「くず野郎」

誰もが私をきれいだと言う。誰もが女らしいと言う。でも私は、十二歳のあの日以来、あの男以外の男に、性の対象として見られることが、どうしてもできないのだった。中学のときも、高校のときも、たくさん告白された。手紙ももらった。ストーカーまがいに待ち伏せをしてくる男もいた。押されて付き合いかけたこともあるけど、キスでさえ気分が悪くなって、それ以上はとてもできなかった。

記憶の中にうっすら残る、あの日のあの人。その姿しか受け付けない自分をひどく滑稽だと思うけど、私はいまも、あの男を捜し続けている。

ネイルサロンの重たいドアをそっと押し開けると、呼び鈴が鳴り、奥から嶋田さんが笑顔で現れた。この街でも腕利きのネイリストだ。女手ひとつで、この小さなネイルサロンを経営している。前は大手のエステティシャンだったが、三年前に独立して、ここに店を構えたそうだ。

「枝野きみえさま、お待ちしてました」

嶋田さんは、今日は藍色の膝丈ワンピースに、黒いタイツを合わせて、髪はひっつめている。いつもシンプルな服装をしていて、メイクも控えめだが、女性性を出しすぎず、かといって男性的でもなく、見ていていつも気持ちのいい人だと思う。

「あー、やっぱり三週間経つと、ちょっと先がはがれてきますね」

客用の椅子に座って、手を出したとたん、嶋田さんに言われる。料理もせず、最大限爪を傷つけないようにしているのに、少しずつはがれるので、私としてはやっぱり三週間に一度は通いたいのだ。

「今日は、どんなのにします?」

私の指先を、除光液で洗いおとしながら嶋田さんが聞く。

「枝野さまはいつも大人しめのデザインを好まれて、それは雰囲気にも合ってるんですけど……」

それは私がついつい十二歳のあの日、男に塗ってもらった色に近い色ばかり選んでしまうせいだ、と私は思う。

「今回こんな新色が入ってきてるんですけど、枝野さんに似合うんじゃないかと思って。どうですか?」

嶋田さんがそう言って、棚から小瓶を取り出す。

ガラスの中のその色は、赤。少し暗い――熟しすぎたラズベリーのような赤だった。
「きれい」

思わず吐息がこぼれた。この色を、爪に彩ったら、さぞかし華やかになるだろう。けばけばしすぎない、上品な赤で、目を奪われたまま視線を外せないほどだった。

「じゃあ、これ、塗ってください」

オフィスにこの赤はふさわしくないかもしれない。けれど、明日から会社は三連休だった。三日後、職場に行く前に自分で落とすことも可能だと思い、私はこの色を嶋田さんにお願いすることにした。明日からの休日、この爪で過ごすと思うとひどくどきどきする。こんな感情も、久しぶりのことだった。

私がいつも嶋田さんにしてもらうのは、流行のジェルネイルではなく、昔ながらのマニキュアだ。ジェルネイルと違って、落としたいと思うときに自分で除光液を使いすぐ落とせるのが良い点だ。

三日間で落としてしまうのはもったいないけど、その分、自分だけの贅沢をしているように思えて、こんな気分にさせてくれる爪先の真紅が、いとおしい。
爪を塗られている時間だけ、私の心はあの日に戻ることができる。

「このネイルにぴったりのラメがあるんですけど、使いますか?」

そう言って嶋田さんが、銀色のラメを出してくる。爪の先にあしらうと、まるで星くずを指先にまとっているかのようだった。

ネイルサロンを後にして、その日はデパ地下でデリ惣菜を買って帰宅した。一人暮らしの私の部屋のテーブルに買ってきたあれこれを並べ、冷蔵庫から缶ビールをとりだして座り込む。いったん座ると、立つ気がしない。マカロニサラダとチーズ入りハンバーグを交互につつきながら、テレビをつける。

NHKの9時のニュースでは、女児をさらって監禁した男が逮捕されたということを、アナウンサーがお決まりの淡々とした口調で話していた。暴行の事実があったかどうかが、今後の本事件の焦点になります、とテレビから音声が、ひどく無慈悲に流れた。

この手のニュースを聞くたびに、いつも私はわが身を振り返り、ため息をつく。母の知り合いの男に、一方的に爪を塗られた。犯罪として逮捕するには、弱い、ような気がする。なにより、もう時間が経ちすぎていて、騒ぐには遅い。

ただ、あのとき、あれ以上のことがもしあったなら、私はいったいどんな人生を送っていただろう?

男を嫌悪し、憎悪し、恨んだまま大人になったのか。それとも、もっと燃えるような恋に思いは変化したのか。わからない。想像しても、わからない。

短大生だったとき、大学図書館で、ストックホルム症候群の本を読んだときには、自分もこれにあたるのかな、と思った。ストックホルム症候群とは、犯罪被害者が、犯人と一時的に時間や場所を共有することによって、過度の同情さらには好意等の特別な依存感情を抱くことをいうそうだ。

十二歳の子共の爪に、色をつけるのが犯罪なのか、私はずっとずっと、考えている。だけど、私の心を奪ったまま、消え続けているのは、私の中で、たしかにあの男が犯した大きな罪だと、思うのだ。



三連休のラスト一日、夏帆の結婚式の日は、秋晴れだった。教会での式が済み、真っ白なウェディングドレスに身をつつんだ夏帆が、夫となる澤山さんにかばわれながら、しずしずとこちらへ歩いてくる。私は出席者の皆と、二人に向かって籠の中の花びらを投げる。フラワーシャワーをあびた夏帆が、こちらへ向かって、最高に幸せそうな顔で笑う。

さきほどの厳かな教会式の最中、私はずっと、目をこらして十字架を見ていた。神様、私が誓い合いたい相手は、あなたの前に立てるのでしょうか。あの人は、この十年の間に捕まっていないでしょうか。なにかもっとひどい罪を犯してはいないでしょうか。そしてそもそも――生きているのでしょうか。

純白のドレスのけがれのなさは、私には到底似合いそうにないと自分で確信した。爪を塗られて、いろどられた指先は、同時にあの男の思いのままに、たぶん汚されていたのかもしれない。

嶋田さんが塗ってくれた真紅の爪先を見ながら、自然と涙がこぼれてきた。思えばこの十年、爪に色をつけないときはなかったのだ。除光液で落としてもなんだか落ち着かなくて、すぐに自分で塗り直したりネイルサロンの予約をしていた。

今日は式から帰ったら赤いネイルを落とす日だ。明日から、会社だから。落とすのが惜しいから、そんな言い訳をしていたけれど、思い切って、しばらく爪を塗らないでおこうかと、ふと思った。

私が抱えていた十年越しの恋は、内側から腐り落ちてひどい匂いを放っている。
そろそろ、葬り時だとは、自分でもわかっていた。

「枝野さんが泣いてるの、初めて見ました。仲良しの夏帆先輩の晴れ姿、感動でしたもんねー」

一緒に招待客として出席した会社の後輩が、ずれたコメントをする。泣いてもおかしくない場所にいて良かった、と私もずれたことを思いながら、パーティバッグから白いハンカチをとりだすと、涙をぬぐった。




ピンヒールを脱いだ足に温湿布を貼ったあと、自宅の洗面所でまず化粧を落とした。メイク上手、と夏帆はおだてるけれど、逆に言えばすっぴんは貧相だ。子供の頃は自分が童顔だと信じていたけど、年をとるごとにだんだん素顔はありがちな容姿になってきている気がする。

十二歳の頃の顔の面影がもうないので、もし男が私を見ても、あのときの子だとは絶対にわからないだろう、と思う。

だからこそ、いつも塗っている爪が、判別ポイントかと思っていたのだけど、よく考えれば爪を塗っている女性なんて、大人になれば掃いて捨てるほどいるのだ。よって、結論。私たちは、もうお互いを、見つけられない。だからこそ、もうこの恋を、終わらせる。

そう心の中で決めると、私は洗面台にある除光液のボトルに手を伸ばした。その瞬間、携帯の着信音が鳴った。

「……もしもし」

あろうことか、母だった。母からの電話は、一年ぶりくらいだ。スナックや立ち飲み屋の店員の仕事を転々としたあと、地元の不動産屋の店主と再婚した母は、鎌倉で静かに暮らしている。私とは絶縁まではいかないけれど、社会人になって逃げるように母のもとを去り、一人暮らしを始めてからは、お互い干渉しないようになっていた。それが、なぜ、今日に限って電話をかけてくるのか。

「きみえー」

その声音だけで、母がひどく酔っているのがわかった。肝臓を壊してからは、あまり飲まないようにしているはずだったのに、どうして今日は飲んでいるのだろう。なんとなく厭な気分になって、つっけんどんに答える。

「何? なんか用?」
「大事な人が死んだの」

その言葉の不吉な感じに、背中が粟立つ。大事な人っていうのは、まさか。動揺を押し隠して、わざと冷たく聞く。

「それって、母さんの何番目の男のことよ」
「あんたの、父親」
絶句した。

「十八日の夜にお通夜で、十九日の昼に葬式だって。で、あたしは出ないから、あんたが代わりに行ってきて」

「ちょっと待って、私、父親なんて覚えてないんですけど」
「鎌倉のあたしの家まで来てくれたら、斎場までの地図を渡すから。あんた、会社休めるわよね」

どこまでも身勝手な母の言い分だったが、私はため息をついて「行く」と返事した。爪の色を落とすような気分では、もうなくなっていた。




江ノ電に揺られながら見る七里ガ浜の海は、霧のような雨にけぶっていた。一定のリズムで揺れる電車の椅子は、ひたすら眠気を誘う。秋冬用の喪服は、体のサイズが昔と変わっておらず、ちゃんと着られたので安心した。

爪の真紅は、結局落とし損ねてしまい、誰に言われるまでもなく葬式に赤い爪はご法度だったが、ちょうど喪服に合わせたレースの黒い手袋があるので、それをはめて出席しようと思った。

父の思い出、というのは、思い返そうとしたがほとんど浮かんでこない。母よりだいぶ年齢が上で、母とも初婚ではなく再婚だったということしか知らない。私が物心ついたときには、母はもう父と離婚し、夜の街で働くようになっていた。だからもう、父親なんていないものと思っていた。まさか母が、今でもその消息を知っていたとは思いもしなかった。

鎌倉駅で降り、傘と着替えが入ったボストンバッグを抱えて改札を出ると、母の今の結婚相手であり、私の義父にあたる吉田さんが、車で迎えに来てくれていた。

「きみえちゃん、悪いね。ゆき子がわがままを言って」
「こちらこそ、母がいつもご迷惑をおかけし、申し訳ありません」

頭を下げると、吉田さんは「いやいや」と右手を顔の前で振った。

「ゆき子もなあ、元旦那の葬式なんだから、行ってもいいって俺は言ったんだよ。でも行かないって、がんばっててさ。でも、きみえちゃんは二人の大事な娘なんだから、きみえちゃんには実のお父さんとのお別れ、させてあげたかったんだろうね」

吉田さんの運転する車の助手席に乗り込むと、車はなめらかに発進した。

「喪主のほうには、俺からきみえさんが出席するからよろしく、って話をつけておいたから大丈夫だよ。ただ、向こうの親族には一応、元嫁の娘が来てるっていうのは秘密だから、こっそりな」

「親族、ということは、父方の親戚が集まってるということですよね」

「そうそう。ただ、きみえちゃんのお父さんは、ゆき子さんと離婚したあとは、再々婚はしてないみたいだったな。初婚のときの息子さんが、喪主をするのだそうだよ」

「初婚の息子、ということは……えぇっと?」
「そう、きみえちゃんとは腹違いのお兄さんになるね」

私はひらめいた。血の半分つながった兄がいるなんて、いままで一度も聞いてなかったけど、パズルのピースの最後のひとつが埋まるように、とつぜん理解した。

「その人は、いくつぐらいなんですか」
私の声は、震えていたけれど、その反面落ち着いていたように思う。

「そうだね、ゆき子さんの話では、きみえちゃんより十歳くらい上だと聞いてるよ」

地図は吉田さんが持ってきてくれていたので、まっすぐ葬儀場へと向かった。斎場にはもう沢山の人が集まっており、どうやら父の仕事先の関係者が多いようだった。これなら、人波にまぎれて、誰も私の正体に気づくものもいないだろう。なるべく後ろの席に腰掛けて、式が始まるのを待った。

祭壇にかかげられた父の遺影は、いかめしすぎて、自分の実父とは到底思えなかった。

参列者が順番に、数珠を持って手を合わせにいくのを見て、自分も倣った。喪主をつとめる男性が、私が頭を下げるのを見て、ちらりとこちらに視線を投げ、向こうもお辞儀をした。

ふっと目が合い、心のうちからせりあがってくる思いがあった。

(――変わって、ない)

十年の時を経ても、私は、あの人を見分けることができた。
もうそれだけで、十分だった。

斎場を出て鎌倉の家に着くと、母は赤い目をしていたが、もう泣いてはいなかった。私のためにカステラを切ってくれて、熱いお茶を出してくれた。居なれない家のソファに腰掛けて、湯のみのお茶をすすった。

「あの日はね、私だけが真治くんと会うつもりで、きみえに彼を会わせるつもりはなかったのよ」

私に問い詰められた母が、ようやく話してくれたのは、十二歳のあの日のことだった。母のほうでもあの日を記憶しているとは思っていなかった、と私が言うと、母は泣き笑いのような顔をした。

「だって、きみえを初めてぶった日だもの」

母と父は十歳差の夫婦だった。二十三歳だった母は、三十三歳で大学の非常勤講師だった父と、恋に落ちて結婚し、その年に私が生まれた。三十三歳の父には、離婚した妻のもとにいる十歳の息子がいたが、母にはそれを最初のうち隠していた。ある日元妻から父のもとに写真入りの手紙が届いて、息子がいることがばれたそうだ。そのことがきっかけだったかどうかは知らないが、その四年後、私が四歳のときに、父と母は離婚した。

母は初めての離婚だったが、父は二度目の離婚だった。いろいろゆきづまっていた母は、飲み屋で仕事をしながら、昼は男と遊ぶようなところにまで堕ちていた。そして、私が十二歳になった、その年のこと。

「息子さん、真治くんというんだけど、真治くんからあたしのもとへ手紙が来たのよ」

私は息を止める。

「父親から聞いただけど、血のつながった妹がいるみたいだから、会いたいって」

母はお茶で唇をしめしながら、話しつづける。

「真治くんが、あまりに本気でそう言うから、あたしね、ちょっと危ないなって思ったのよ。まさか、きみえがいるアパートの場所まで事前に調べてあったとは思っていなくて」

(ああ、じゃあ、母にあのアパートで待ってて、って言われたっていうのも嘘だったんだ)

十年ののちに知った、あの人が母の恋人ではなかったという事実に安堵する。

「きみえがいるアパートに真治くんが上がりこんだことを知って、思わず気が動転して、きみえをぶってしまったのだけど、爪をいたずらされただけだと知って、ほっとしたのよ。あの子を、勝手に危ない子扱いして、きみえをちゃんと紹介しないで、いまでは悪かったかもしれないと思うわ。今日、立派に喪主をつとめていたのでしょう?」

「ええ、そうね」

黒いスーツに身を包んだあの人は、十年前と変わらず少し癖のある髪をして、あの日のあの部屋を思い出させる暗い目をしていた。髪はあのときと同じ茶髪ではなくなって、黒い色をしていたけれども、どこか何事にも本気でないような、そういう雰囲気を身にまとっていた。

あの人が、私の、爪と心を染めた人。そして、本当の、お兄さん。

突然真相を知ることになり、キャパオーバーになってもおかしくないのだけれど、私の心の波立ちは、少しずつ、少しずつ、収まっていった。

この爪から色を落とすとき、それが私の恋のおわり。鎌倉から帰って、やっと一人の時間がとれた私は、結婚式も葬式もいっぺんに参列した、忙しい月だったな、と今月を振り返る。   

気がつけばこの部屋もずいぶんと室温が下がり、季節が冬に向かっていることを知る。湯船で体をあたためたあと、洗面台に向かい合った私は、コットンにたっぷり除光液をなじませ、指先にすべらせていく。赤がみるみるうちにコットンのほうにうつり、はだかの爪が現れる。

いつも思うのだけど、なにもつけない指は、とても無防備で、落ち着かない。でも、今は、この落ち着かなさ自体に、慣れてみようと思う私がいた。
人を好きになることを、色づく、と最初に言ったのは誰なのだろう。

体の一部に塗られた色が、いつしか体中を侵食して、ままならないことになっていた。あの人と、私はもう会うことはないだろう。でも、忘れることもないだろう。

一枚余分に上着を羽織り、私はお湯を沸かし始める。熱い飲み物でも飲んで、今日は早く寝てしまいたい。そう思いながら何度も何度も、私は自分の色のない爪を眺めてみる。

いつも温かい応援をありがとうございます。記事がお気に召したらサポートいただけますと大変嬉しいです。いただいたサポ―トで資料本やほしかった本を買わせていただきます。