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【掌編】埋火

もう会えない人を思い出すのは、灰の中の埋火をつっつき返すのに似ている。さわらなければ、また火は熾きないのに、それをわかっていて、もう一度あかあかと燃やしてみたくなってしまう。

記憶の中の横顔を、ぼんやりと浮かべても、もう昔ほど心は痛まない。もう苦しまずとも良いという意味では、いいことかもしれないが、だいぶさびしい。別れの直後は、本当に私自身が手負いのけものになっていて、深い痛みにのたうつようだったのに。

古傷が、その存在を思い出させるのは、決まって雨の日だ。雨は世界の輪郭を淡くさせ、降る音が記憶を呼び覚ます。あの日、私はあの人の傘に入ることができなかった。彼のとなりで傘に入っていたのは、もう私ではない人だった。

熾火をつついて転がして、でも、もうあの日のようには、燃え盛ってくれない。ゆるゆると、わずかな炭がその赤色を強くするだけ。ほとんどはもう白い灰で、燃え残りでしかない。

冬の雨ほど心を深くうがつものはなく、追憶の中のあの日が、また近くなる。いろんなものに取り残されたまま、私はいまも途方に暮れている。

少し疲れているようだ、と私はもう一度布団に入り、二度寝の準備をする。これは冬眠、いや冬ごもりだ、と自分自身につぶやく。眠っている間は、余計なことを考えずにすむ。毛布にくるまれると、ひどくほっとした。

このまま夢すら見ずに眠りたい。外からは、いまだ寒の雨のしずかな音が響いている。色をなくした世界で、私は体をまるめて眠る。このまま、残った火が消えて、すべて白い灰になればいい。もう二度と、もう二度と、私とあの人が会うことはない。さようならすら、最後に言えなかったままに。

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