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【短編】花の蜜

ぐるりと見わたした小さな公園内には、子どもはおろか大人もいない。きょろきょろあたりを警戒しながら、あゆみはそっとツツジの茂みに近づくと、たわわに咲いているピンクの花をひとつ摘みとった。あゆみにとって、ツツジの蜜は、子ども時代の小さな罪を思い出してしまう、背徳の味だ。

いまから二十年ほど前のこと、小学生のあゆみにとって、ツツジの蜜から始まった一連の出来事は、忘れがたいものになっている。五月が来るたび、ツツジが満開をむかえるたびに、思い出してしまうけれど、花を摘んだのは、あれ以来のことだった。なぜ、今、もう一度花の蜜を吸おうと思ったのか。それは、きっと――。

ツツジの花の蜜を吸うことをあゆみに教えてくれたのは、祖母だった。平成が始まったばかりのころだっただろうか。あゆみは小学三年生だった。手ぬぐいを姉さんかむりに頭にまいて、割烹着を着て、腰を曲げてゆっくり歩く祖母と、あゆみは二人でよく買い物に行っていた。

あゆみたちの住む町は、山を背負っていて、まわりには緑がたくさんあった。祖母は、植物にとても詳しく、よく山へ登ってきのこや山菜をとったりして、食卓に並べてくれたものだった。

そのときは、たしか自宅のそばの公園を通りかかったのだ。ツツジがぽつぽつと咲きそろいはじめていたのを見た祖母は、その中のひとつを、そっと摘みとり、口にあてた。


「あゆみちゃん、ツツジの花って、甘いんやぞ。ひとつ、吸ってみ」


あゆみはびっくりしたが、すぐにやってみたくなり、ツツジを摘むと、祖母がやってみたとおりに、吸ってみた。甘い蜜が、口の中にすっと広がり、消えた。


「おいしーい」


 興奮してもう一つ摘もうとしたあゆみを、祖母は制した。


「このツツジは公園のものやからな。摘んで蜜を吸うのは、あまりたくさんやったらいかん。花がなくなってしまったら、困るやろう? だから、このツツジの味は、ばあちゃんとあゆみちゃんだけの、秘密」


「秘密ね、わかった」


あゆみは喜々として祖母と約束したが、次の日学校へ行ったときには、もう誰かに話したくて話したくてたまらなくて、一番仲良しだったあずさに、しゃべってしまっていた。


「あずさ、お花の蜜って、食べたことある?」
「ないよ。お花って、食べられるの」
「お花じゃなくて、お花の蜜。今日学校の帰り、一緒に吸いにいこ。でもこのこと、内緒だよ」


神妙な顔をして、うなずいたあずさを見て、あゆみは浮き浮きした。おいしい花の蜜を、親友のあずさにだけ教えてあげる。あずさからは、いつもあゆみが何かしら教えてもらうことが多かったから、あずさに何かを教えてあげるというのは、とてもいい気分だった。


ところが、学校が退けてあずさとの待ち合わせ場所に行くと、待っていたのはあずさのほかに、千里と莉乃の2人がいた。


「ねえねえ、今日花の蜜食べに行くんだって? あずさから聞いたよ」
「私たちも連れて行ってよ」

あずさが、2人に喋ってしまっていたのだ、と理解すると、あゆみは少し不満だったが、まあ4人くらいなら、と思って、みんなを公園まで案内した。ツツジは、今日は八分咲きになっていた。あゆみは、ひとつ花をむしりとると、口に当てて吸った。


「こうやるのよ」
みんな、次々とあゆみを真似して、驚嘆の声を上げた。
「おいしーい」
「甘―い」


あずさも、千里も、莉乃も、蜜の味の美味しさがたまらなくなったのか、どんどん花をむしりはじめては吸い始めた。あゆみは「あまりたくさんやったらいかん」という祖母の言葉を思い出すと、あわてた。


「みんな、あんまりたくさん花を摘んだら怒られちゃうよ」
梨乃が笑いながら答える。
「ぜんぜん、このくらいちょっとじゃん。大丈夫だよ」


「だめだよ、公園の人が困っちゃう」
「教えたのはあゆみでしょう、何言ってんの。うるさい奴」


千里が機嫌を損ねたように言い「もう行こ。ほかのところで食べよ」と言って、莉乃とあずさを連れて、公園を出て行ってしまった。あとには、無残に摘み取られたツツジの花が、しおれて地面に落ちていた。あゆみは泣きたくなったが、落ちた花を、目立たないように、拾って木陰に隠すと、一人で家に帰った。


千里と莉乃がふれまわったせいで、花の蜜を吸うことは、あっという間にクラス中のブームになった。みんな、町の中や学校の、ありとあらゆる場所のツツジの蜜を吸い始めた。人の家でも、勝手に吸い荒らすので、とうとう学校に苦情が来た。


クラス会が行われ、クラス担任の桜田先生が壇上から、厳しい声で言った。


「最近、町中や学校のツツジが荒らされています。ツツジの花を摘むのは、みんなやめようね」


梨乃が、きゃっきゃと笑いながら、手を上げて言った。


「最初にやったのは、中村あゆみちゃんです。私たち、真似っこしただけだもん。中村さんを、注意してくださーい」
「中村さん、本当ですか」


先生ににらまれて、あゆみは、しおしおと謝った。すみません。もうしません。みんなもしないでください。すごすごと席に着き、机の上に突っ伏した。なんで私が、怒られなきゃいけないんだろう。憤慨したが、クラスのボス的存在の千里や莉乃には、逆らえなかった。

ツツジの花の見頃が終わるころ、祖母が急に倒れた。畑仕事の最中に、へたりこんでしまったようで、安静のためにしばらく入院することになった。祖母の好きな和菓子を持って、あゆみは母親とともに病院へ見舞いに行った。


「私、ちょっとトイレに行ってくるから。あゆみはおばあちゃんとお話してなさい」

母がそう言って病室を出て行ったので、クリーム色のカーテンで仕切られたベッドのそばには、あゆみ一人になった。


「おばあちゃん、大丈夫?」
少し頬がこけた祖母に、話しかけると、祖母は、弱々しい笑みを浮かべた。
「あゆみちゃん、ばあちゃんも、だいぶ年なようだよ。こうなる前に、あゆみちゃんと山菜とりやきのこ採りに連れて行きたかったけど、あゆみちゃんはまだ小さいからねえ」


「小さいと、だめなの?」
「山菜にも、きのこにも、ほら、毒があるから。間違ったら、大変なんだよ。お腹を壊したり、死んでしまう可能性だってある。それを見分けるには、もう少し大きくならないとねえ」
「そうかあ」


「……あゆみちゃん、こないだばあちゃんと、ツツジの蜜を食べただろう」
あゆみは、いまクラスで問題になっているツツジの話が出てきたことに、心臓をぎゅっとつかまれた気分になって、座り直した。


「ツツジにも、毒があるものもあるんだよ。こないだ、公園で食べたものは大丈夫な品種だけどね。すぐ後ろの山に生えているオレンジ色のツツジなんか、蜜を吸うと大変だ。吐いたり、けいれんが出たりするからね。ばあちゃんはこないだ、簡単に蜜を吸うことを教えてしまったけど、なんでも、むやみに、ツツジだと思って吸ったら危ないよ」


あゆみは、こくこくと頷きながら、大変なことを聞いてしまった、と汗をかきはじめた。終わりの時期とはいえ、まだツツジは季節の花だ。誰か、間違って毒のツツジを吸ってしまったら、大変なことになる。


トイレから母親が返ってくると、あゆみは言った。
「お母さん、私、もう帰る。約束があったのを思い出したの」
「約束?」


けげんそうな顔をしながらも、母親は、祖母に着替え一式の風呂敷包みを渡すと、あゆみを家まで車で送ってくれた。家の前で車が止まると、あゆみは転がるように、ドアを開けて降りると、学校のほうへと走り出した。


小学校の前のツツジの茂みには、今日もあゆみのクラスメイトが何人か、花を摘んで蜜を吸っていた。その中には、千里と莉乃もいた。血相を変えて、息をきらしながら、あゆみが近づいてきたのを見て、みんなびっくりしていた。


「どしたの、中村」
男子の一人が、あゆみに聞いた。あゆみは、震える声で言った。
「ツツジ、みんな食べちゃだめ。ツツジは、毒があるんだって。私も知らなかったんだけど、ばあちゃんに聞いた。危ないから、食べないで!」


毒、という言葉のまがまがしさは思った以上で、みんな、一斉に青くなり、パニックになりだした。千里は、叫んだ。


「最初に、あたしたちに食べるのを教えたのは、あゆみちゃんじゃない! 毒でみんなが死んじゃったら、どうセキニンとるのよ!」

莉乃も騒いだ。


「あゆみちゃんのせいで、みんな死んじゃったら、あゆみちゃんはサツジンハンなんだからね!」


わあわあ、ぎゃあぎゃあ、とみんなこぞって騒ぎはじめ、泣き出す子も出てきて、とうとう騒ぎを聞きつけて、保健室の先生とクラス担任の桜田先生が職員室からやってきた。騒ぎ泣きしている子どもたちを、まとめて校内へ連れて行くと、何があったかを、一人ずつに聞いた。あゆみも、半泣きになりながら、現状を説明した。


養護教諭の吉谷先生は、桜田先生に向けて、くすっと笑った。


「ツツジの蜜、私も子ども時代に、たまに食べたんですけど」

さっきまでツツジの毒について学校のパソコンで検索していた桜田先生は、吉谷先生に少し渋い顔をすると、子どもたちに言った。


「みんなが学校や公園で蜜を吸ったツツジはおそらくヒラドツツジで、毒はないものだ。だけど、山に生えているレンゲツツジにはたしかに毒性がある。けいれんが起きる場合もあるから、たしかにむやみに何も知らないでツツジの蜜を吸うと危険だ。ツツジの蜜を吸うのが流行っているのは、公園の花を荒らさないでという注意だけでなく、毒のある花もあるという観点から、子どもたちに注意しないといけないな」


みんなの泣き声はじょじょにおさまっていき、その日はそれで収まったが、あゆみはそれからしばらく、千里や莉乃のグループから、無視されたり陰口をたたかれたりするようになった。ツツジの季節はいつの間にか終わり、その年の夏に、祖母は入院したまま亡くなった。

毎年、毎年、五月が来るたび、満開のツツジを目にして、あゆみは思う。ツツジの蜜を吸うなんて、本当は大したことじゃなかった。1つ2つ吸って、そのうちみんな飽きたのだから。祖母の言葉に動転して、「毒だ」と騒いだりしなければ、自然に消えたブームだったのに。大人になってから、あゆみは祖母の足取りをたどるようにして、山歩きを始めた。植物図鑑を片手に、毒のある山菜やきのこも、見分けられるようになった。


今年も、ヒラドツツジが咲いている。毒のないほうの、きれいな薄ピンクのツツジ。山歩きで、山菜やキノコをとっても、ツツジだけは、あの小学三年生のあの日から、口につけたことはなかった。


ツツジの蜜は、どんな味だっただろうか。ふと魔が差して、目の前のツツジの花を摘み取ると、花びらと反対のすぼまった部分を吸ってみる。甘美な味。一瞬であの日の記憶がよみがえる、くらりと目まいがする味だった。

「毒だ」と私が騒いだのは、みんなを危ない目に遭わせたくないというのと同時に、いじわるな千里と莉乃に、子どもなりに小さな復讐を仕掛けたかったのだと思う。千里が、莉乃が「毒だ」と言われて青くなるのが見たかった。


今年は、あと一週間後に、同学年の同窓会が開催されることになっていた。みんな、あのツツジの毒のことなんて、きれいに忘れているに違いない。それでも。蜜の味は、毒の味。子どもの私の心に宿った、小さな悪意の瞬間を、私はたぶん忘れないだろう。

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