才能って執着のことだと思う
noteを始めて3周年の日は昨日だったことをすっかり忘れて、ばたばたと用事に駆けずり回ったのがひと段落し、ようやく「そういえば昨日やった」ということを思い出したところの私である。カレンダーにも「3周年」って書いてあったのに、すっかり忘れていた。まあそういうものですね。
noteに新しい書き手さんがどっと増えてますね!楽しい記事が読めるのは大歓迎なので、すごく私は嬉しくて、ランキング(?)から新規の書き手さんをたくさんフォローさせていただいている。
そして思うのは「みんなやっぱり、特に若い子ほど、自分にはものを書く才能がないんじゃないか、って考えて不安になったりしてるんだなあ」ということだ。
夜中にざーっといろんな書き手さんの記事を見た感想なので、誰のどの記事だったかということを覚えてなくて申し訳ないが、そういう印象を私は受けた。
そうして私も、自分の20歳前後のことを思い出した。あのころから小説が書きたくてしょうがなくて、そのくせ、20代の私は、実際の自分の力を試すのは怖くて、読む本の量だけが膨大に増えていった。
プロの本を読めば読むほど、ハードルが高くなって、どんどん書けなくなってた。たまに書こうとしても、数行、数ページ書いて「こんなのだめだ」ってあきらめてた。
あの頃めちゃくちゃ苦しくて、どうして一番自分がやりたいことなのに、こんなに才能がないんだろうって、どんどん自己肯定感をなくしていっていたのだ。
でも、二十代の終わりから、私は少しずつ短い物語を編めるようになった。二十代の間、少しずつ続けてきた模写がよかったのか、なんだったのかはわからない。
そうして、三十歳を超えた今、自分の才能に関して思っていることはただひとつある。
それは、自分が一番執着していることこそが、才能そのものなんじゃないか、ってことだ。
私にとって、人生で執着・執念・執心といえるほど、どうしても叶えたかったのが「自分で書きたい物語を、自分の手で書けるようになること」だった。
プロになることのその前に、自分の思い通りに、筆を走らせ、自在に文章が書けるようになること、それができるようになることがまず一番の夢だった。
たとえば「語学できるようになりたいな」などとも、私は人生を通して何度もぼんやりと思ってはいたけれども、執着・執心にまでは至らなかった。やっぱり、ぼんやり思う程度じゃ、上手くはならないのである(よっぽど器用な人は別かもしれませんが)
下手なくせに、物語を考えずにいられないのも、文章技術を高めるために、今日もせっせと模写を続けるのも、これもひとえに、私が「ものを書くこと」へ、異常なまでの執着をしているからである。
ここまでの執着を、語学ほか、その他の趣味に感じたことはない。料理は楽しくやっているけれど、それでも、本当の執着は、私の場合物書きのほうにより多く感じていると思う。
才能がないから、という自分で感じた理由で、何か自分のやりたいことをあきらめようと思っている人がいたら、言いたい。どうしてもやりたい執着があるってことは、それもう才能だから、少しずつ続けたらいいんだよ、って。
みんなもういい大人だから、仕事や家事や育児や、その他もろもろに忙しい。でも、人生は、やりたいことを成し遂げるために、80年くらいもあるんじゃないかってそう思うんです。
ものを書くことをどうしてもやってみたいなら、そこに執着を、あなたなりに感じるなら、下手でも書いてみましょうよ。noteを読む限り、悩んでいる子たちは、二十代の頃の私なんかより、ずっと才能があるし、こういうみんなに開かれたnoteという場もある。
私も、生きている限りは、ずっと研鑽していきたいと思う。言葉を編むのが、文章を綴るのが、物語を書くのが、人生で一番やりたいことだから。
才能ないな、やめたいな、って思うことは私にもあるけど「人生で執着できたのって、これだけだからなあ」って思うと、苦笑して、またやるしかなくなる日々に戻る。あきらめたことは何度だってあるけど、気が付けばまた「やりたい」っていう同じ道に出てた。そうして私は、あきらめることをあきらめました。
note3周年、応援してくださった方、新しくフォローしてくださった方、運営さん方、みなさんに、心からありがとうの花束を。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
いつも温かい応援をありがとうございます。記事がお気に召したらサポートいただけますと大変嬉しいです。いただいたサポ―トで資料本やほしかった本を買わせていただきます。