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【掌編】早春

空模様が柔らかくなり、吹く風も少しぬるんだ。水道から出る水はまだきんと冷えているが、寒さは峠を越えた。朝一番のあたたかいほうじ茶は、体の冷えをとってくれる。治りきらない風邪にはマスクをして、朝食の用意をする。マスクの中が、息でちょっとだけ湿る。

炊けた白米に、豆腐とねぎとわかめのお味噌汁に焼き魚をつけた、質素な食卓で、一人の朝食をはじめる。テレビニュースをつけると、アナウンサーはすでに春色の服装をしていた。窓辺のレースカーテンからの陽射しが、少し明るさをおびる。光が、一心に部屋の中に入ってくる。

春のおとずれは、いつもほっと体がほぐれるようだ。冬が行ってしまった安心感と、来た春のまぶしさに、今回も身のうちがよろこんでいる。朝食を食べ終わると、お皿をシンクの中で水にひたして、散歩に出る準備をする。

簡単にファンデとルージュをつけて、またマスクをし、薄茶色のダウンのコートをはおる。このコートはもう五年ばかり愛用しているけれど、落ち着いたその色に飽きたことはなくて、いまでも良い買い物をしたと思う。冬の間必要だった手袋は置いていくことにする。早春の空気を肌で感じたい。

外は太陽の光に満ちていて、まだ冷たい風にも関わらず、濃厚な春の気配がしていた。ふきのとうやたらの芽の季節が来たことを思い出し、今夜は山菜の天ぷらにでもしようかな、と思う。春を食べたい。

履き古したスニーカーの足取りは軽く、私はどんどん山のほうへ続く坂を上る。途中で水仙の群生を見つけ、はっとするほどきれいな黄色に目を和ませる。坂の上からは、小学校が見下ろせて、登校中のランドセルの子たちがたくさん歩いていた。

冬の間こごめていた体を、少しずつ伸ばしていかねばならない。坂の上のほうに残る足元の雪を割って、顔を出すのはさみどりに萌える草花で、その生命力に感心する。息をきらして歩きながら、私はもう、早春のただなかにいる。

#小説 #短編小説

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