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【第7話】誘惑のクリームシチュー

第1話「オムライスの届け先」
前話「ビーフカレー戦争」

十一月初旬の、小春日和のこと、私は紺堂と二人で動物園に来ていた。十月の半ば、丹羽から「就職で東京へ行く」というショッキングな振られ方をされ、ずっと落ち込んでいた私を、紺堂は、何度もデートに誘い、ついに定休日の今日、それが実現したのだった。

紺堂が、隣にいるのに、いつも丹羽のことを考えてしまう。あの夏の日、一度だけしたデートのことを、つい思い返してしまう。

紺堂は、とてもいい人で、うちを継ぐ条件はすべて揃っていて、なのに、体と気持ちが、どうしてもなかなかついてこず、私は本当にどうしていいものやら、迷っていた。

「千夏さん、キリンですよ。大きいですね」

紺堂が私の手をぐっと引く。慌てて手を離そうとしたけれど、さらに強く握られ、離すことは叶わなかった。

「やあ、すごい首の長さだなあ」

動物園には、たくさんの親子連れや、カップルが来ていて、はたから見たら、私たちも仲のいい恋人同士のようにしか見えないだろう。でも、実は、すごく微妙な関係で、私たちの関係は言い表せるのにちょうどいい言葉がない。

でも、あまりしけた顔をしていては、せっかく連れてきてくれた紺堂に悪い。そう思いつつ、ぼうっとキリンの柵の前に立っていると、

「すいません、写真を撮っていただけませんか」

と声をかけられた。私たちと同い年くらいのカップルだった。いいですよ、と言って、写真を撮った後、カップルの女の子のほうから、私と紺堂に向かって、

「お二人の写真も、撮りましょうか」
と言ってきた。私は必死で遠慮したが、紺堂が、
「お願いします」

と言って首に下げていたカメラを差し出した。カップルの男性が、

「美男美女って感じで、本当にお似合いですね」と私たちを褒めた。お似合い、という言葉に固まっていると、紺堂がすかさず、

「もうすぐ結婚しますから」

と、にこやかな笑顔で断言した。私は普段なら「なんで予定にもないことをっ」とキレているところだったが、丹羽のことでずっと消沈しているこの頃なので、言い返す元気もなかった。


大学の授業が終わって、キャンパス内のベンチで、持ってきた弁当をつついていたら、急に「あの、あなた」と声をかけられた。
「あ、丹羽さんの後輩の」

夏に丹羽の部屋でばったりと出くわした、丹羽の後輩——水橋なつめさんだった。今日もパステルカラーのワンピースを着て、髪をくるくると巻いている、相変わらずの女子力の高さだった。彼女は「ちょっと隣、いいかしら」と、私のベンチのはじに座ると、単刀直入に切り出してきた。

「丹羽さんが、東京で就職するのはご存知?」
「はい」

うろたえながら、どういう意図があるのかと思って聞いていると、水橋さんは思いもよらないことを言った。

「私——丹羽さんに振られたわ。私も卒業したら、東京へ丹羽さんを追いかけます、って告白したけど、駄目だった。今は、大切にしたい子がいるから、って。その子は、大事な家業があって、俺なんかにふさわしくないけど、でも、その子のことが今は一番大事だから、君とは付き合えない、って。

気付かないの? 丹羽さんも、あなたのことが好きなのよ! 東京に連れて行きたいのは、私じゃなくてあなたなのよ! でも、あなたの夢を邪魔したら駄目だと思ってるから、動けないだけなんじゃない!」

そうまくしたてて、水橋さんは涙を浮かべた。

「あー、何、私、敵に塩を送ってるんだか。とにかく、なんとかしなさいよ。家業が何よ。さっさと、腹決めて、卒業したら東京に行きなさいよ」

水橋さんの言葉に、私は殴られたような衝撃を受けた。

——丹羽が、本当に私を好きだったとしたら。

丹羽は、私が高校生で店に出始めたときから、ずっと大学生で、その先は院生で、いつかいなくなるとはわかっていたけれど、ずっと丹羽が、あのアパートにいてくれるような、ずっとうちの店に来て、出前をし続けてくれるような、そんな気がしていたのだ。

本当に両想いだったとしたら、それでも、私は自分の店を捨てて、丹羽のいる東京へ、お嫁に行けるのだろうか。

水橋さんには、東京へ行く覚悟があった。でも、丹羽は水橋さんを選ばなかった。私に、東京へ行く覚悟が、はたしてあるのか——?

「丹羽さんを幸せにしなかったら、許さないから」

そう言って、水橋さんは立ち去り、私は、食べかけのお弁当箱を、見つめながら、ただ茫然としていた。

ぼうっとしたまま、家に帰り、なんとなく店に顔を出すと、温かいクリームシチューの匂いがした。紺堂が、今夜のセットメニューのために、大鍋でつくっていたのだ。

「千夏さん、一皿食べて行きませんか。今日は寒いから、美味しいですよ」

さきほど水橋さんに言われた言葉で、私は混乱していて、その混乱が尾をひいたまま、厨房にある、座面の破れた椅子に腰かけ、紺堂がよそってくれたシチューに、口をつけた。

柔らかい、とても優しい口当たりのシチューが、熱く喉を降りて行って、気付いたら泣いていた。ぐすぐすと、鼻水をたらしながら、むせんでいると、背後から、紺堂の大きな腕が私を包んだ。

「僕はここにいます、どこにもいかない——あなたを、置いていったりしない」

その言葉で、さらに泣けてきた。喉が熱い。お腹も熱い。紺堂はそのまま、私が泣き止むまでそばにいてくれたあと、

「ちょっと頭を冷やしてきます。店を開けるまでには戻ります」

と告げて、外へ出て行った。私はただ、紺堂の白いコック服の大きな背中が、暗くなった夕闇へまぎれていくのを、ただ見送っていた。

第8話「二人だけのクリスマス」


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