【児童文学】父さんとあたし、313kmの旅
父さんからは、日によって土や泥の匂いがする。洗濯機のそばの脱衣カゴに脱ぎ捨てられた泥水と汗で汚れた作業服を見て、あたしは顔をしかめる。今日は外作業の日だったのだろう。
こんな泥まみれの作業服のうえに、自分の服は載せたくなかった。しょうがないので物干し場からもう一つ、カゴを持ってくると、自分が着替える前に着ていた服を、そっちに入れる。
どうせ洗濯機のなかで一緒になってしまうのかもしれないけれど、とりあえず今だけでも分けておきたかった。
父さんの仕事は配管工だ。中学校のクラスメイトに「未羽ちゃんのお父さん、何してるの?」と訊かれて「ハイカンコウ」といっても、ぴんときてもらえないことが多い。
今、父さんはナカクワ第二工業という給排水衛生の設備工事を請け負う会社の社員だ。――と説明しても「キュウハイスイ」という言葉でまた友達がつまづくのは目に見えていて、あたしは簡単に「んー、なんかね、水道管はわかるでしょ。そういった、キッチンとかトイレとかからつながる水回りを工事する仕事だよ」とざっくり答えている。
あたしの知識もあやふやだけど、たぶんそんな感じにしか、説明できないのだから仕方ない。
この間、この質問をしてきた友美恵ちゃんに「そっかあ、大変そうな仕事だね。でも、世の中に必要って感じがする」と言われたので、あたしは肩をすくめた。
あたしだってわかっている。父さんの仕事が、たぶん社会にとって大事な仕事だってこと。でも、それとこれとは別で、あたしは最近父さんに、どんな態度をとればいいかよくわからない。父さんも、十四歳になったあたしを、最近扱いかねている気がする。
お風呂上りの体が冷えてきたので、あたしはざっと首に巻いていたバスタオルで頭をがしがし拭くと居間に戻り、テレビを見ている父さんに「――風呂、上がった」と伝えた。「ん」とランニングとトランクス姿の父さんが立ちあがる。思春期の娘に下着姿は見せないなど、気を遣うつもりもないらしい。
お風呂は最近、あたしのわがままで、父さんより先に入らせてもらうことにした。私がそう母さんに頼んだら「あたし→父さん→母さん」の順で入ることになった。髪や体が、少しでも泥の匂いになるのが嫌だ。父さんは、母さんからあたしがそう言っていたことを聞いていたかもしれないが、とくに何も言わずお風呂を二番目に入ってくれるようになった。父さんは、家のなかで、あまり多くはしゃべらない。
夏休み、どこにも行けないことはわかっていた。クラスメイトのみんなが「家族で北海道行くんだ」とか「グアム旅行だよ」などとはしゃいでいるなかで、あたしは硬い気持ちのまま笑顔をつくり、みんなの話にあいづちばかり打っていた。
家族旅行に行ったのは、どのくらい前だろうか。最後に行ったのは、あたしが小学校低学年のときだったかも。
うちはとにかく、百貨店づとめの母さんが土日に休みがとれず、反対に土日休みの父さんと休日が合わないので、ここずっと、旅行らしい旅行、それも国内の遠いところや海外にはとても行けなかった。別に、十四歳にもなって、家族団らんなんてちょっとね。そういうクールな気持ちを心の中に置いてその場をしのいだ。
夏休み、何をしよう。図書館とプールと地元のショッピングモールの三点をぐるぐるしているだけになりそうではあるけど、まあ仕方ないだろう。
そう思いながら、じりじりとコンクリートを灼く暑さのなか、家に帰りついて冷蔵庫からアイスを出そうとしたとき、居間の固定電話が鳴り始めた。あたしは眉を寄せる。いまは父さんも母さんも仕事でいない。セールスの電話とかで、あたしが出て断れなくなったらどうしよう。
鳴り止むのを待っていたが、一向にその気配がなく電話は鳴り続ける。しかたないので、棒アイスをかじりながら、受話器をとった。
「――もしもし、山岸ですが」
「もしもし。あっ、未羽ちゃんかね。私、小夜子です」
「小夜子おばさん。――お久しぶりです」
電話をかけてきたのは、父さんの妹の小夜子おばさんだった。小夜子おばさんは新潟県新潟市に住んでいる。父さんの出身地は新潟県なのだけど、いまあたしたちの家は母さんの実家に近い石川県かほく市にあるのだった。同じ北信越内とはいえ、いままでにあまり行き来があったわけではなく、小夜子おばさんの声も三年ぶりくらいに聞いた気がする。
「未羽ちゃん。淳宏兄さんおるかね。それか、実代子さんか」
淳宏とは、父さんの名前、実代子とは、母さんの名前だ。
「すみません、どっちも今、仕事で」
「そうなんや。じゃ、未羽ちゃん、伝えてもらえるか? おじいちゃん、ちょっと肺を悪くして、入院したって。一応報せとかないとよくないって思ったんよ。心配かけるやろうけど、でも、淳宏兄さんは息子やからね」
おじいちゃんは、父さんと小夜子おばさんの父にあたる。あたしの脳裏に、小学生のころ一緒に将棋をしてくれた新潟のおじいちゃんの顔が浮かんだ。おじいちゃんがよく吸っていた、たばこの匂いとともに。
「わかりました、お父さんに伝えて、また夜電話してもらうことにします」
そう伝えて、受話器を置いた。――おじいちゃんのことは、うっすらとした記憶の中だけだけれど、優しい人という印象を覚えていた。おじいちゃん、入院したっていうことは、死んじゃうのだろうか。そう考えると、胸のうちがざわついた。
夕方、父さんが帰宅したのを待って、さっきのことを手短に伝えた。父さんは「そうか」と言って、すぐに小夜子おばさんの家に電話をかけていた。あたしは聞き耳を立てていたが、話の内容は聞き取れない。
母さんの帰宅を待って、父さんはあたしたちにぼそりと言った。
「有給休暇をとって、明日から三日ほど新潟行ってくる」
「私は行かなくていいのかしら」
母さんが心配そうに言った。
「実代子は百貨店の仕事が休めないだろう。このあいだも、シフトギリギリで回してるって言ってたじゃないか。無理しなくてもいい」
「そうねえ。――でも、そしたら」
母さんは、ふいに私のほうに顔を向けた。
「未羽は夏休みでしょう。父さんと新潟、行ってきなさいよ」
あたしと父さんは思わず声を重ねて「えっ」と言ってしまった。思いがけない展開すぎて、頭がついていかない。あたしが? 父さんと二人で? 新潟? そんなの車の中で会話なんてもたないし、居所のなさを常に感じそうで、なんとなく困ってしまいそう。
父さんも、視線を泳がせてまごまごしている。だけど、母さんはいかにも名案を思い付いたという風に、さっそくあたしたちの荷物の準備までし始めた。
父さんは、はあっとため息をついて、あたしのほうを見ると「じゃあ、行くか。一緒に」と言った。どうすればいいのかわからなくなったけど、あたしも不承不承うなずいた。北海道やグアムみたいにきらきらとしていない、オンボロ車での国内旅行だけれど。でもたぶん、どこにもいけない夏よりは、いいのかもしれない。
翌朝、母さんが出勤前に大きなおにぎりと水筒の冷たいお茶を持たせてくれた。父さんの仕事にも使っている車のなかは、掃除する暇がなかったようで、後部座席のあちこちが泥や土ぼこりで汚かった。
あーあ、と少し旅行を承諾したことを後悔しながら、助手席に乗り込んだ。そして、ふと横を見てあたしは仰天した。
「父さん、なんでまた今日も作業服なの? 仕事じゃないのに?」
水色の作業服(洗濯はしてあるけど)の腕をまくった父さんは、とまどいながら答えた。
「いや、これを着ると、気持ちがぱりっとするというか、俺がしゃきっとするというか……」
勝負服ということなのだろうか。それなら仕方ないかもしれない。エンジンを父さんがかけると、カーエアコンの冷房を入れてくれた。しかし、あまり風が冷えていない。
「ね、これ、もうちょっと冷たい風出てこないの」
「ああ、ちょっと調子が悪いんだ。窓から風も入れるから、我慢してくれ」
「えー、最悪」
あたしの悪態に、父さんはからからと笑った。最悪と言われて笑うなんて、おかしな父さんだ。車が加速しはじめ、あたしはうんざりした気持ちで、これからひたすら続く新潟市までの313㎞の道中に思いを馳せた。
会話が続かないので、早々にしゃべることをあきらめてFM放送を入れた。陽気な声の男性パーソナリティがぺらぺらと話しはじめて、あたしは車窓から入る夏の風に吹かれながらそれをぼんやり聞いた。おおよそで、到着までに四時間かかると聞いている。
そんな長いあいだ、車内という狭い場所で父さんと二人だなんて。ここに母さんがいたら、まだ母さんとおしゃべりしていたらいいのだから、会話に困ったりはしないのだが、なんといっても、今は父さんしかいないのだった。
夏の太陽の反射光であふれる北陸自動車道は、それなりに混雑していたが、父さんの車はすいすいと走った。あたしは三十分ごとくらいに、車がいまどの位置にいるか聞いた。
「いま、砺波」
「いまは富山市の立山町のあたりだ」
「そろそろ、糸魚川が近くなってきた」
父さんの車には、カーナビがついていない。それでも、道路の看板とおおよそのいままで走った記憶だけで、いまどこにいるのかだいたい把握しているみたいだ。走って約一時間半過ぎたころ、父さんが「ちょっと休憩しよう」と言って、道の駅「親不知ピアパーク」に車を停車させた。
「未羽、お腹すいたろう。なにか、食べるか。父さんはアイスコーヒーを飲もうと思う」
「この辺には、何かおいしいものあるの」
「そうだな。たら汁とか」
二人でお食事処に入ると、あたしはたら汁定食、父さんはもずくそばを頼んだ。大きな汁椀のなかに、ぶつ切りのたらが浮かび、たっぷりとネギが散らしてあった。ごはんが結構な量を盛られていて、食べきれないでいると父さんが残りをもらってくれた。たらのダシが染み出した汁はとてもおいしく、最後の一滴まで飲み干してしまった。
お土産コーナーもぐるりと見てから、建物の外に出るとまっ青な夏の日本海が目に飛び込んできた。だんだん、夏休みらしい気分になってくる。
ヒスイ展示というのぼりが立っているのをけげんに見上げると、父さんが説明してくれた。
「このあたりの海は、ヒスイがとれることで有名なんだ」
あたしは展示してある、薄緑色のきれいな石を眺めた。石川からちょっと出てきただけでも、知らない景色やモノに出会える。
アイス最中を買って、車に戻った。新潟市は、なかなか遠い。それでも、父さんとの距離は、この旅のなかで少しずつ縮まっている気がする。運転が楽しいのか、父さんはリラックスした表情だった。父さんの緊張も、解けてきたようだった。
上越を過ぎたところで、工事の影響で対面通行規制になっていた。車がゆっくりとしか進まない。ラジオの音にも飽きて、あたしはスイッチを切った。父さんは、まっすぐフロントガラスの前の車の列を見ていたが、ふっと話しかけてきた。
「未羽。中学はどうだ。――うまくいってるのか」
内心、さっきまでの和やかな気持ちを忘れ、はぁ⁉ と突っかかりたくなる。そんな、良い親らしい言葉、無理して言わなくていいのに。
「べっつにー。あたし、人間関係も勉強も、なんだって器用だし。うまくやれてる」
父さんはくすっと笑った。
「器用なのはいいな。そこは、母さんと似たんだな。不器用な俺の血を引かなくてよかった」
あたしはまた、むっと押し黙る。
配管工をしているのだから、父さんの手先自体は器用なのだ。ただ、人間関係や勉強は、そう得意ではないのかもしれない。でも、そんな卑下した言い方、こっちが反応に困ってしまう。あたしはそう、人間関係も勉強もなんなくこなせる。だけど―――。
「なりたいものが見つからない」
「えっ?」
父さんがあたしの言葉に、驚いたように聞き返した。
「だから、なりたい職業が、ないのっ」
つい、自分のいま一番の悩みを、ぽろっと口に出してしまった。こんなこと、クラスの誰にも、母さんにも、言ったことがなかったのに。
「――父さんは、よく配管工なんて仕事、選んだね。泥だらけになることも、力仕事も多くって、それでも続けてるからすごいよねっ」
どうしても、素直になれなくて口調が嫌味に、そしてきつくなってしまう。銀行員をやってる、七瀬ちゃんのお父さん。高校で数学の先生をしている、高梨さんのお父さん。警察官をやってる、直人くんのお父さん。
ほかの人のお父さんほど、良いように見えてしまうのはどうしてなんだろう。泥だらけの作業服も、真っ黒になって色が落ちない指先も、見ようによっては格好いいはずなのに、どうしても、父さんの仕事を「よくこんな大変な仕事を選んだな」だなんて思ってしまう。
「俺が配管工になったのはたまたまなんだ」
父さんはそう言うと、進み始めた車の列を見ながらハンドルを握り直した。
「昔、俺が高校生だったとき、親父と大喧嘩したことがあって」
「――へえ、おじいちゃんと」
そんな話は、初めて聞いた。
「今となっては笑える話だけど、東京に行ってバンドをやりたくて。父さん、実はギターが得意だったんだよ。それを親父に行ったら大反対されて。家を飛び出して、金を貯めようと、土方の仕事をしていたんだ。
そうしたら、知り合いのつてから配管工の会社で社員として働けば、たんまり金が貯まると言われ、就職して仕事をしているうちに、そっちのほうが面白くなっちゃってね。案外向いていたことがわかったんだ。それからギターはあまりやらなくなってしまったし、気が付けばもう二十年以上、配管ばかりやってるな」
「――父さんにも、親に逆らいたいことあったんだ」
「あったさ。親父には俺がまっとうになったとたいそう喜ばれたけど、いまでもロックを聴くと、あの頃の自分を思い出して苦笑したくなる」
「偶然、好きなことに出会うって、ラッキーだね。あたしにもそういうことあるかな」
「未羽はまだ十三歳だろう」
「ちがう、十四歳だよ」
思い切り年を間違えられたことにむくれると、父さんは「悪い」と謝ってからゆっくりと車を加速させる。
「これからだよ。きっと、何か見つかるさ。何もなかったら、ナカクワ第二工業で事務員をやればいい。俺の伝手がある」
「ええー、あまり面白くなさそう……」
あたしがうつむくと、父が笑った。
「そう思ってしまうあたりが、まだ子供なんだろう。実は一見つまらなそうな仕事だってどれも奥深いし、どんな会社だって事務員がいないと成り立たないんだぞ」
わかったように言われて、あたしはまたぷうっと頬をふくらませた。そのあと、気を取り直すとからかってみる。
「でも、バンドマンに憧れるだなんて、父さんも青春してたんだね」
「ああ。でも、今はうまく配管をやり終えることが、俺にとってのロックだからな」
「なんだそれ、かっこいいと思って言ってるところが笑えるー」
「笑うな、バカ」
車内があたしと父さんの笑い声で満たされた。あたしにも、見つかるだろうか。いつかこれといったあたしだけの仕事が。
車は新潟市に入り、おじいちゃんの入院している総合病院の駐車場に停まった。父のあとについてエントランスから入り、病院の案内板を見てから、西棟の504号室へと向かう。
病室は個室で、中にそっと入るとおじいちゃんが寝ているベッドのそばの丸椅子に、小夜子おばさんが腰かけていた。
「あらあら、兄さんだけじゃなく未羽ちゃんまで。遠いところありがとう」
「で、親父の具合は?」
単刀直入に聞いた父さんに、小夜子おばさんは笑顔になる。
「ああ、とりあえず大丈夫そう。私があわてて、淳宏兄さんに電話して来てもらうことになったと言ったら、父さん余計な心配かけるなって、怒っちゃって。つまりは、怒れるくらいは元気」
そう言って舌を出した小夜子おばさんは、おじいちゃんの体の上に布団をかけなおした。おじいちゃんは、あたしたちが来たことにも気づかずすうすう眠っている。
「今夜と明日は、うちに泊まっていってね。こっちもバタバタしてるから、オードブルとってお刺身並べるくらいしかできないけど」
「あんまり、気を遣わなくてええって」
病室の窓からは、市街地の向こうに、ぽっちりと海の青が遠くに見えた。父さんとここに来てよかった。父さんの知らなかった顔がわかった。そう思いながらあたしは、小夜子おばさんに「これ、お見舞い持ってきました!」と菓子箱の包みを差し出した。
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