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【短編】果物ナイフ

キッチンの引き出しの整理をしていたら、カトラリーに混じって一本の果物ナイフが出てきた。すぐに、この果物ナイフは私のものではなくて、三か月前にこの部屋を出て行った毬絵の私物だと気が付いた。

井の頭公園そばの、三鷹のアパートの一室で、三か月前までルームシェアしていた私と毬絵。お互い地方都市から上京してきて、大学を出たあとは、私はイラストレーター、毬絵はエッセイストを目指して、バイトしながらそれぞれに出版社への持ち込みを続けていた。

ルームシェアは四年におよび、私と毬絵は数えきれないくらい、この小さなアパートのダイニングテーブルで、食事をとった。私はシンプルな洋食が好きだったし、毬絵は和食が好きだった。当番制で食事をつくった。そして、毬絵が食事当番のときは、きまって、季節の果物が食後に出された。

「果物ないと、生きていけないんだよね」

毬絵の実家は山梨の桃農家で、家でもしょっちゅう果物ばかり食べていたらしい。その習慣は一人暮らしになってからも続き、私と暮らすようになってからも「果物代はけちれない」と、スーパーでりんごや梨、みかんやぶどうなどいろいろ買ってきては、私にもふるまってくれた。

毬絵がりんごや梨をそのナイフで剥く手つきは、ほれぼれするほど見事だった。するすると、りんごの皮が、毬絵の手元からまな板へと線を描いて落ちていく。数えきれないほどの果物を、毬絵は私に、そのナイフで剥いて食べさせた。


「果物なんて高いから、そういつも買ってこなくていいのに」と最初言っていた愚痴も、毬絵があまりに果物を食べているのが幸せそうなので言わないようになった。

ルームシェアをするにあたって、二人でいくつか決め事をした。


「ひとつ、男性を無断で連れ込まない。ひとつ、家賃・食費・光熱費は折半すること。ひとつ、ベッドに寝る人と布団に寝る人は、一ヵ月の交代制」などなど。


だから、恋人がいる時期はラブホテルに泊まった。私も毬絵も、そこは徹底していた。このアパートは、アーティストを目指す二人の、大事な聖域だから。むやみに踏み荒らさないよう、お互いに気を遣っていた。


ぽつぽつしか仕事が来ず、焼き肉屋のバイトで日々を埋めていた要領の悪い私とは違って、毬絵のほうには雑誌のコラムの依頼や、書評の依頼が、コンスタントに来るようになったのが、同居して三年半が過ぎたころだった。毬絵のほうは漫画喫茶のシフトを減らし、アパートにこもってバリバリ仕事をこなしているようだった。私は、毬絵にチャンスが巡ってきたことを、心から良かったと思っていたが、同時に妬く気持ちが心の中に生まれた。


毬絵は、がんばってきたんだから。才能があるんだから。だから喜んであげたい。そう思う一方で、ふがいない自分を責めて、毬絵へのうらやましさで心を真っ黒こげにしていた。

だんだん、外に仕事に行く私と、家で仕事をする毬絵の、家にいる時間の長さが違うようになり、私が疲れてバイトから帰ると、毬絵が食事と果物を用意してくれるようになった。当番制だった食事づくりの役割の、バランスがだんだん崩れていった。


毬絵が心をこめて私のために用意してくれた和食のプレートと、季節のいい香りの果物が、だんだん私には重荷になった。

本当は、毬絵は私の先を越した優越感でいっぱいになっていて、だからこんなに尽くしてくれるんだ、それは気持ちに余裕があるからだ、なんて黒い気持ちで考えたりしていた。

ある日、焼き肉屋で酔っぱらった人を無理やりタクシーに押し込むときに、吐しゃ物を思いきり服に吐かれてしまい、さんざんな思いで家に帰ってきたことがあった。

食欲がなく、毬絵が用意してくれた夕食をはじめて「要らない」と言った。


「あんまり無理しちゃダメだよ、希子。希子の本分はイラストを描くことなのに、最近働きすぎじゃない?」


そう言った毬絵に、思わずそばにあったクッションを投げていた。完全に八つ当たりだった。


「毬絵は優雅でいいよね、仕事もたくさん依頼あるみたいだし、ゆっくりごはんつくる余裕もあるし。私にイラストの仕事来ないの知っててそれ言うなんて、ほんと嫌味」


「希子に真剣さが足りないんだよ!」

毬絵は私のほうにクッションを投げ返してきた。

「もっと本気で絵を描くことに向き合ってよ! 二人で夢をかなえようって、暮らしはじめたころ一緒に言ってたじゃない!」

毬絵の言葉は私をぐっさり傷つけて、私たちはお互いの部屋のドアを、壊れそうになるくらいの音でバタンと閉めた。その日から私と毬絵の冷戦がはじまった。

口を聞かなくなって二週間が過ぎたころ、私は、もう毬絵との仲をぶちこわしたい、という衝動に駆られて、初めて恋人を毬絵の留守にアパートに呼んだ。

内鍵をかけるやいなや、恋人が深くキスしてきて、私たちは服を脱ぐのもそうそうに抱き合った。今月、ベッドを使っていいのは毬絵の番だったけど、かまうものかとその上でセックスした。そのあと、泥のように二人で眠って、恋人は満足げに帰っていった。


ようやく我にかえってみて、ベッドの上が汚れているのに気が付いてしまった。毬絵を激しく傷つけたい、というさっきまでの気持ちがよみがえり、私は自分で自分が怖くなった。毬絵がいったい何をしたというのか。彼女はがんばって夢を掴みかけているところではなかったか。それに比べて、みっともなく嫉妬して、挙句の果てに、彼女がいつも綺麗に使っているシーツまでこんなによごして。


毬絵は帰ってくると、私が毬絵のシーツを洗濯乾燥機にかけているのを見て、すべて察したようだった。

二人の決まりを破って男を連れ込んだことも、シーツを汚したことも、毬絵はひとことも責めないまま、言った。

「私、そろそろ一人で食べられると思う。だから、部屋を新しく見つけて、出てくから。希子は新しいルームメイト探してくれる? それか、恋人さんに住んでもらえばいいんじゃない?」


洗濯乾燥機がゴウンゴウンと音を立てるなか、毬絵は私にとどめを刺した。

「――あ、それはできないんだっけ。希子の恋人さん、家庭があるもんね」

最後の毬絵の盛大な厭味さえ、私はうまく受け流せずに、ただゴウンゴウンと鳴り続ける、シーツの乾く音を聞いていた。


毬絵は新しい部屋を探し始めるようになった。私は新しいルームメイトを探す準備に入った。ただ、仏のようだった毬絵を、あんなに怒らせてしまったあととなっては、自分の性格の欠陥や小ささばかりが思いやられて、今度はどんなルームメイトがいいのか、私は迷っていた。


毬絵のもとに、電話がかかってきたのは、毬絵が、これぞ、と思う次のマンションを探し当てたばかりのときだった。

携帯をにぎりしめて「え」「それで」「どうなったの」という毬絵の顔が、みるみる白くなっていくのを見て、私は冷戦が続いていたことも忘れて「どうしたの」と聞いてしまっていた。


「お母さんが脳梗塞で倒れた」
「桃農家の」
「そう」


毬絵が泡を食っている様子から、ことの重大さが窺えた。


「私、山梨へ今夜の新幹線で帰る。ごめん、いつ帰れるかはわからない。今月分の家賃は置いていくから、大家さんに払っといて」

毬絵はそう言い残すと、バタバタと荷物をまとめて、部屋を出ていった。

その夜「毬絵はもう着いたかな」と思いながら、アパートの窓を全開にしてベランダで缶ビールを飲んだ。ふだん飲まないから、酒が回る。そう、アパートで缶ビールを二缶以上飲むのも、二人の間では禁止だった。酔っ払いの介抱なんてしたくないから、と毬絵が決めた決まりだった。


三缶目を開けながら、毬絵がいない夜は長いな、と思った。アルコールの回る頭で、私は夜を持て余しているのだ、とぼんやり考える。恋人を呼んでまた毬絵のベッドで抱き合う気には、微塵もなれなかった。


そうしてようやく、自分は毬絵のことをひどく心配しているのだということに気が付いた。

毬絵から連絡があったのは、三日後だった。桃の木の枝の伐採中に倒れた毬絵の母親は、なんとか一命をとりとめたが、おそらく後遺症が残るだろうし、すぐにまた働くのはとても難しいとのことだった。

アパートに毬絵が帰ってきたとき、毬絵はもう覚悟を終えていた。


「農家の働き手が足りないから、いったん山梨に帰るよ」
「……エッセイストの仕事は」

「山梨でやれる分はやるし、やれない分はあきらめる。まず家が大事だから。どのみち、私は今月で出てく。だからあとは、新しいルームメイトを」
「了解」


言葉が見つからなかった。毬絵がこんなことになって、嬉しくもなんともない。胸の奥に寂寥感だけが広がった。毬絵とつまらない喧嘩をしていなければ、もっと優しい言葉をかけてあげたりだとか、励ましてあげたりだとか、できたかもしれなかったのに、今さら自分が壊してしまったものの大きさに気が付いた。

毬絵の引っ越しの日、毬絵の兄が山梨から運転してきた引っ越しトラックにすべてに持つを積み込み、毬絵は私と最後に向かい合った。


「こちらが急に出て行くことになったから、次のルームメイトが見つかるまで、家賃半分払うから」


そう言って毬絵が押しつけてきた現金の入った封筒を、私は押し戻した。


「いらないよ。お母さんの療養費とか、いろいろとっておきなよ。私は焼き肉屋でかせぎまくってるから、しばらく支払いに困らない。ルームメイトがいつ見つかるかもわかんないし、もらえない。絶対に、受け取らないから」

私があまりにかたくなにそういうので、毬絵も眉を下げて「そう?」と言うと封筒をバッグにしまった。


「希子」
「なに」


「絵、描き続けなよ。私、希子の絵、好きなんだからね」
「ん」


何も上手く返事できない私に、首をあきらめたように横に振った毬絵は、お兄さんに呼ばれて助手席に乗りこむと、トラックは砂煙をあげて走り去っていった。

――毬絵がいなくなって、三か月。私はまた、絵を少しずつ描くようになった。一人で住むには少々広いアパートの、毬絵といつも食事をしたダイニングテーブルで、キャンバスノートを広げる。


毬絵が残した、果物ナイフ。あの果物好きの毬絵が、ナイフを引越し荷物に入れ忘れることなど考え難い。とすると答えはひとつで、私のために残していったのだろう。


ナイフを置いていった毬絵の心中は、どのようなものだったのか。


――すぐに栄養を取り忘れる希子だから、ビタミンCをとってね。という意味なのか。


――私を傷つけたことを忘れないでね。という意味なのか。


ナイフの用途の分かれ道を、私は考えながら、私はりんごの静物画を描いている。終わったら、食べよう、と思いながら。

もちろん、毬絵の果物ナイフで、へたくそだけれど皮を剥いて。

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