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正しさから降りた先の幸せ

年齢を重ねてしみじみ思うことがある。きれいに整頓された家や、自炊した手料理。それが毎日保証されるということは、このうえなく幸せなことだと。

私はそもそも片付けが苦手で、忙しくなればなるほど部屋は荒れ、そうすると元気がなくなり、その負のスパイラルにはまるともともと好きな食事づくりさえ億劫になりがちな女だ。

だから、ちょっぴり情けないけど正社員の働き方からはとうに降りた。今はパートで週五以下の日数で働きながら、結婚しているので家事と趣味の執筆をしている。

貯金はあまりないが、バリバリ社会でいっちょまえに働くことはもう求めていない。身体がついていかないことがわかっているし、忙しいと生活の質が落ちて、掃除と料理のゆきとどかない暮らしでは、鬱まっしぐらになってしまうはずだ。

だから、私は働く日数を落としてでも、家事にあてられる時間を確保する。

すべての人にそうあれとは、決して言わない。働くのが向いている人もいるし、何より私がパートなどしていられるのは、夫に生活を保障されているからだ。夫には感謝しかない。

最近、どんな社会についてある本を読んでも、会社勤めでもう右肩上がりに給料が上がっていく時代ではない、と書かれている。

東京の一部の地域ではそうでないところもあるだろうが、地方の小さな企業につとめている人のほとんどは、そう実感しているだろう。

お金が生きる上で大事なことはじゅうじゅうわかっているが、働いても働いても今現在より豊かになれない社会なのであれば、働くことをある程度セーブしたりコントロールして、生活の質の充実に(なるべくお金を掛けないやり方で)全振りするのも、ある種の「良い生き方」なのではないかと思う様になった。

日本はもっと発展しなければいけないのか? みんなが豊かになるために、景気を上げていかないと、本当にいけないのか?

正直、ちょっと疲れたよ、と思わなくもない。思春期からずっと不況の平成の時代を生きてきた30台後半のいち女性としては。

幸せは自分にとってなんなのか見極めよう。

「小説が日々の余暇で書けて」「家事と料理に充てる時間があって」「友人や家族の縁に恵まれて」「心と身体が健康であれば」私は十分幸せだ。

そういう「どこか降りた」暮らしを望めば、お金は貯まらないのだけど、それでもいいやと思う自分がいる。

私の幸せは、私で決める。

そう思いながら、日々を大切に生きたい。





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