【短編小説】その雫の理由
「信じらんない!」
パタパタと俺の前髪から水滴が垂れ落ちる。
カウンター席で喧喧諤諤やり合っていた50代くらいのサラリーマン二人組も、ソファー席で男同士で抱き合ってる絵が表紙の本を読んでいるメガネ女も、ボックス席なのに二人で並んで座ってイチャイチャしてる学生カップルも、みんな女に水をぶっかけられた俺を見ていた。
信じられないのは俺の方だ。
普通、公衆の面前で人の顔にコップの水をぶっかけるかね。
あ、氷、シャツの中に入ったかも。冷てぇ。
目の前の俺に水をぶっかけてきた女ーーーアカリちゃんはすげえ剣幕で怒っている。
今「〝烈火の如く″とはどういう状況のことですか?」とクイズを出されたら、俺は回答ボタンを速攻で押して「目の前のアカリちゃん」と答えるだろう。
そんな烈火の如く激怒しているアカリちゃんの、少し明るめの髪色をしたショートボブからちらりと耳が見える。
アカリちゃんの耳は少し小さくてなんか可愛くて、俺はアカリちゃんのそこが好きなんだけど、なんとかってブランドの重たそうなピアスがいつもついていて、耳たぶが助けを求めているように見えるのがやっぱり残念なんだよなあと、ぼんやり考えていた。
顔は誰がどう見ても美人。
少し化粧は濃いけど。
あと、スタイルもいい。
というか、エロい身体している。
確か、でかい会社の社長秘書だか受付嬢だかやっているような、いないような。
ともあれ、この容姿ならどこの飲み会へ行っても人気ナンバーワンであることは間違いない。
俺と出会うまでずっと女王様みたいに男達からチヤホヤされてきた理由もよくわかる。
そんな女と俺は今「修羅場」を迎えている。
こんな俺みたいな男に主導権を握られるなんて、アカリちゃんは絶対にプライドが許さないのだろう。
だから、罵詈雑言なんてもんじゃない、すごい言葉をさっきからずっと浴びせられ続けている。
よくもまあ、こんな汚い言葉をたくさん知ってるなと、正直感心してしまう。
あーあ、ニューヨークだかどこだかで買った自慢の口紅、落ちてきてなんだかもうドロドロ。
そういや映画でこんなような顔の悪い奴いたような、いないような。
そんなことを考えていると、アカリちゃんは俺に何を言ってももう無駄だと思ったのか、わざとらしいほどの深い溜め息をつくと「もういい」と言って、テラテラと黒光りする小さなエナメルのバッグを持って出口へと向かって行った。
俺は「あ、待って」と声をかける。
そしたら、アカリちゃんは大袈裟なほど体を震わせて立ち止まり、ゆっくり振り向いた。
「ここのお会計、いつもみたいにアカリちゃんしてくれないの?」
俺は伝票をひらひらさせて、アカリちゃんに見せた。
アカリちゃんが期待していた言葉ではなかったようで、こっちが心配になるほど顔を真っ赤にして、伝票を俺の手からひったくると、ドスッドスッとヒールが無垢材の床に突き刺さりそうなほど、乱暴に歩いてレジカウンターへと向かった。
ヒール折れちゃわないかな、高そうな靴なのに。
バンッとすごい音を立てて伝票をレジカウンターに置くと、すごい形相で俺を睨んで「私、アカリじゃないから!!!!」と叫んだ。
あ、それは、ごめん。
アカリちゃんが出て行ったあと、ぬるくなったホットコーヒーを一口飲んで、俺も店を出ることにした。
パッと店内を見渡すと、びしょ濡れになった俺のことをカウンター席のサラリーマン二人組はニヤニヤしながら見ていて、ソファー席のメガネ女は本で顔を隠しているけれど、明らかに俺に対して嫌悪と侮蔑のオーラを剥き出しにしていた。
ボックス席の学生カップルはというとーーー
完全に2人だけの世界に没入していて、俺のことなんてもう全然見ていなかった。
すげえな、アオハル。幸せになれよ。
出口の前で、店員が「一応」感丸出しの雰囲気でおしぼりを持ってきてくれたけど、俺はそれを断って店を出た。
外は5月の夜だっていうのに茹だるくらい暑くて、着ているシャツも地元の奴らと作ったフットサルチームのプラクティスシャツだから、少し歩いていればどうせすぐ乾く。
俺は、ショルダーバッグからケータイを取り出して、香澄のSNSのページを開いた。
「今度いつ会える?」
スイッと無機質な音を立てて俺のメッセージは香澄のメッセージボックスへ飛んでいった。
今日は水曜日か。
水曜日は、お茶のお稽古の日だから電話もメッセージもすぐは返せないって言ってたな。
香澄からの返事を諦めてケータイを再びショルダーバッグに戻そうとすると、俺のメッセージに既読がついた。
すると、3秒後くらいに香澄から「いつでも予定合わせるよー」と気の抜けた返事がきた。
「んじゃ、今から会お」
「そんな簡単な女だと思わないでよね」
香澄とは、何個か登録してあるマッチングアプリのどれかで7年前に知り合った。
顔は可愛くもなければ美人でもない。
ブスでもないけど、俺より6個も年上で、体型も、まあ、ぽっちゃりしている。
はっきり言って全然好みじゃなかった。
でも、別の女にドタキャンされた時間の暇つぶしとちょっとした好奇心で会ってみたら、案外悪くなかった。
香澄の笑い声も、食の好みも、好きなアニメも、セックスの相性も。
ただ、俺は万年女にだらしない男だから、香澄も俺と付き合いたいとか、きっとそんなことは望んでいない。
俺も、香澄も、多分この関係が心地いい。
つかず離れず、会ったり会わなかったりを繰り返して、7年が過ぎた。
さすがに服がびしょ濡れのまま電車に乗るのは憚られたので、香澄と待ち合わせの駅までフラフラと歩いた。
アカリちゃんとさよならした喫茶店の最寄り駅から、香澄との待ち合わせの駅はたった一駅なので歩きでもあっという間に到着してしまう。
香澄が来る前に煙草を一本だけ吸いたくて、「喫煙所にいる」とメッセージを送ろうとしたら、後ろから「雄也くん」と聞き覚えのある声が聞こえた。
ベージュのふわっとしたワンピースにいつもの白いスニーカー、そして、黒いエナメルの小さなバッグを持った香澄だった。
「久しぶり、元気だった?」
「香澄に会えてなかったから元気じゃなかった。」
「また軽口叩いて。ホストの営業ですか?」
「このワンピ、可愛いじゃん。俺すっげー好みかも。」
「はいはい、ありがとね。ーってか、え?なんで服濡れてんの?」
「女に水ぶっかけられた。」
「雄也くんの場合、それが嘘じゃないから怖いんだよなあ。」
と、俺が女に水をぶっかけられた理由を聞くこともなく、香澄はケラケラ笑った。
まあ、嘘ではないのですが。
「とりあえず、そのままだと風邪引いちゃうから急いで服乾かしに行こ」
そうして俺と香澄は、コインランドリーではなく、当然のようにホテル街へと歩いていった。
出会って最初の頃は、事が済んだあと退室時間が来るまで、裸のまま布団の中でダラダラとくだらないことーー美味しい炒飯の作り方はどうだとか、あのアニメの作画は最高だとかーーを二人でよく話した。
俺は、その時間が結構気に入っていたのだけれど、いつしか香澄は一人でさっさとガウンを羽織って身なりを整えてしまうようになっていた。
今日も、そうだ。
久しぶりに会うからか、なんだかいつもよりももっと居心地が悪い。
それを誤魔化すために煙草を吸おうとしたら、香澄も同じタイミングで煙草に火をつけていた。
いつから煙草なんて吸うようになったんだろう。
俺と同じ銘柄の煙草を、小さな黒いエナメルの鞄から取り出して、煙を燻らせている。
俺は、その状況が受け入れ難くて「煙草、吸ってんだな」なんて、つい茶化して言ってしまった。
いつもなら「いいじゃん、別にー!」とか明るく返事をしてくれるのに、ーーー俺はその返事を待っていたのにーーー香澄はそうはしなかった。
煙を吐き出しながら俺がやっと聞こえるような声で「うん」とだけ返事をした。
「…なんかあったの。」
「ああ…うん、なんでもないよ。」
煮え切らない返答をされて俺が苛ついたことに気づいたのか、香澄は少し困った顔で「ほんとになんでもないから」と言った。
女のこういうところが面倒臭くて嫌いだ。
女の「なんでもない」は「なんでもなくないから話を聞いて慰めてくれ」なのだ。
俺はそれを知っているし、香澄の話なら聞いてもいい。
香澄が慰めて欲しいなら、俺は香澄の望む言葉をかけてやることだって、出来る。
「とりあえず、話してみ。俺、聞くから。」
すると、香澄は「雄也くんも女子の話を真面目に聞くことあるんだねー」と今度はふざけて笑った。
俺は居心地が悪いこの状況に苛々してたのもあって、「そういうのいいから!」とついでかい声を出してしまった。
「なんだよ、変だよ、香澄。」
「…なんで、変だと思うの?」
「え、なんでって…。」
今思い返してみると、香澄は、いつからか言ってることもやってることも、全部ちぐはぐで変だ。
香澄はいつも、俺がメッセージを送ればいつも「忙しい」と言いながらすぐ返事をしてくれる。
水曜日はお茶のお稽古があるから、電話やメッセージは返せないと言っていたのに、その水曜日にこうやって会ったりしている。
香澄からは絶対俺に「会いたい」と言わないのに、俺が「今から会いたい」と言えば、「簡単な女だと思わないで」と言いながら、でも、すぐに俺のところに来てくれる。
セックスが終わったら、さっさとガウンを羽織って、いつまでも裸でいたがらない。
昔「ぽっちゃりは苦手」と香澄に言った俺に、その体型を隠すかのように。
そして、今、俺の目の前で煙草を吸っている。
俺と同じ銘柄のー。
俺は口をつぐんでしまった。
それを言ってしまったら、これからどうなってしまうのか、どうすればいいのか、わからなくて怖かった。
そんな俺を見た香澄は、こう言った。
「ごめん、私、雄也くんが好き。前からずっと。だから、もう、会えない。」
俺はどれくらい黙っていただろうか。
永遠くらい長い時間、黙っていたような気もする。
やっと俺の口から出た言葉は、情けないことに「そっか。」だった。
俺は、シャワーを浴びるとすっかり乾いたシャツを着て、テーブルの上に置いた煙草とライターをショルダーバッグに放り込む。
そして、代わりに財布を出して、ドアの前の精算機に金を無理矢理突っ込むと、一人で部屋を出た。
ドアを閉める時、香澄の泣いているのが見えた気がした。
気がしただけ、とも思うけど。
俺がシャワーを浴びているとき、香澄がドライヤーで乾かしてくれたおかげで、俺のシャツは水をかけられたことが嘘みたいに、いつもの着心地に戻っていた。
ケータイを取り出して、電話をかける。
「あ、アヤちゃん?今から行っていい?」
空から雨がポツポツと降り始めていた。
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